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鈴木清順さんが亡くなりました [映画]

三寒四温とは云いますが、正にその通りのお天気が続き、北風と南風が交互に吹き荒れるという、いささか忙しい空模様となっています。
花粉も飛び始め、花粉症もちの私には辛い季節の到来となりますが、沈丁花の蕾も膨らみ始め、そろそろあの甘く鮮烈な香りを届けてくれることでしょう。
近所の里山では菜の花が盛りを迎えていました。
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映画監督の鈴木清順さんが亡くなりました。

映画監督の鈴木清順氏が死去 93歳 「ツィゴイネルワイゼン」「殺しの烙印」

時折テレビなどで見かける折に、酸素ボンベをつけておられる姿を拝見しましたので、大丈夫かなと心配でもありつつ、相変わらずの矍鑠とした対応に感嘆もしておりましたが、遂に…、という想いです。
2005年に「オペレッタ狸御殿」を完成させ、そのバイタリティには、正に年を感じさせない、としかいいようのないものがありました。

「清順映画」と呼びならわされ、それこそ老若男女を問わない数多くのファンを獲得しておりましたが、その演出スタイルや映画作法には誰にも真似のできない独特の世界観に包まれています。
「映像美」などという手垢のついた云い方がありますが、鈴木清順監督の描き出しているのは、映画そのものの持つ「立ち居振る舞い」における無限の可能性と美しさであるような気がします。
清順映画の中で、恐らく最も著名なのは「ツィゴイネルワイゼン」であろうかと思われますが、この映画に関して、作曲家の武満徹さんは次のように述べています。
『ツィゴイネルワイゼン』は、此頃めずらしい官能的な映画であったが、これは生の陰画としての死ではない。死の陰画としての生の映像であり、危険な美に満ちている。
鈴木清順のこの世界は、ジョルジュ・バタイユのつぎのことば「──すなわち彼の腕のなかで身もだえしつつ、彼の存在を忘れ去る女性、それはとりもなおさず彼自身であるという事実。」を捩っていえば、死の腕の中で身悶えしつつ死の存在を忘れ去る女性、それはとりもなおさず死自身であるような生の世界である。そして、さらにバタイユが言うように、「死はある意味ではひとつの瞞着である」とすれば、私たちの生の欺瞞こそ『ツィゴイネルワイゼン』によって曝かれたのである。(岩波書店刊「夢の引用」より)

死んだ中砂が青地に貸していた蔵書を返してもらいに、忘れ形見の豊子を伴って小稲(中砂の妻であり豊子の母であった園に瓜二つの情婦)が、頻繁に訪ねてくる。
さらに、サラサーテが演奏した「ツィゴイネルワイゼン」のレコードも、青地は二人に求められるが…。
ラスト、青地は豊子から「お骨を頂戴」とねだられ、それは中砂と青地との間の約束(どちらかが先に死んだら死んだ方の骨を生きている方がもらう)のためだという。
死んだのは中砂ではないか、と青地が反問すると、豊子は、死んだのはオジサマの方だと答える。
こういう映画の流れの中に浸るとき、この武満さんの論評が如何に的確なものであるかを痛感します。
もしかすると、今現在自分がこの世の中に生きているということすらも、本当にそれが事実であるのかわからなくなってしまいそうになる。

この映画の中では、生と死がまるで悪夢のように交錯し、中砂と青地の、いったいどちらが今生きて存在しているのかが分からない不安に駆られてしまいます。
もちろん、その回答は、映画の中ではなされません。この映画を観た者が、そのあとにそれぞれのストーリーを展開させる広がりを与えてくれるわけです。

かといって、決して難解でも晦渋でもなく、目くるめく展開される鈴木清順監督の世界に引き込まれていく愉悦を感じさせます。
生と死という一見重苦しい題材を扱いつつ、決して沈痛な重苦しさはありません。
むしろ、極めて透明で純粋な美しさを感じさせてくれる映画でありました。

この映画は、キネマ旬報ベストテン1位でベルリン映画祭特別賞をも受賞した作品であり、ATG作品の中でも一二を争うヒット作でした。
テレビでもたびたび放映されましたからご覧になった方もきっと多いことでしょう。

この後に続く「陽炎座」「夢二」とともに大正浪漫三部作などと云われますが、私としては「陽炎座」の美しさにも非常に心惹かれるものがありました。

この三部作では、とりわけ音楽の存在が印象に残ります。
音楽を担当したのは、職業作曲家ではなく音楽プロデューサーである河内紀氏。
彼の設計した音楽・音響の世界は、この夢幻の美しさを持つ映像を二倍にも三倍にも膨らませ、私たちを清順監督の紡ぎだした夢の世界にいざなってくれます。
そこには映画の持つ可能性を信じさせてくれる力が満ち溢れていました。
「夢二」では、梅林茂氏というこれまた無限の才能に恵まれた作曲家と共同で音楽に当たっていて、これも出色でした。

鈴木清順さんの訃報に接し、改めて映画というものの独特の夢の世界を考えています。

私が映画を好むのは、私たちを縛り付け統御している「時間」というものの束縛から私たちの精神を解放してくれる表現媒体であるからです。
映画館という、その映画を観るためのみに集まった、相互に全く関係性を持たない者たちのひしめく暗闇の中で、ただ一点、スクリーンに映し出された映像の紡ぎだす独特の時間の中に、それぞれの夢の空間(もしかすれば、自分自身が寝ているときであっても決して見ることの叶わない夢のような)を描き出す。
そのスクリーンには、実際の大きさをはるかに超えたもの(人物のクローズアップなど)や、スクリーンのサイズをはるかに超えた景色(宇宙空間や大海原、広大な砂漠などなど)が映し出され、時間は極度に引き延ばされたり圧縮されたりしながら空無化する。その空間的な矛盾を通して観客の持つ想像の世界を膨らませてくれるのでしょう。
私は白黒無声映画も大好きで、これらを自宅で観るような場合は完全に無音の状況にします。
そうすると、私の頭の中は映像から紡ぎだされる音楽でいっぱいになり、それが画面の動きとシンクロする不思議な世界を味わうことができる。
ビデオ化された無声映画にはしばしば余計な音が入っていたりするのですが、この無意味な夾雑物が如何に映画の紡ぎだす夢の世界を壊すものであるものか…。

そういう意味からすると、現在の映画は何だかむやみに音楽をつけすぎ、意味のない効果音を鳴らしすぎだと思います。
それに今の映画館はあまりに明るすぎるし、ある意味変にきれいで健康的すぎる。
好みの問題だとは思うのですが、私は映画館で映画を観ながら何かを食べたり飲んだりしたりする人の気がしれません。
飲食という現実の生理的な行動によって、せっかく手にした時間という束縛から逃れられる空間を手放してしまうように思われるからです。

鈴木清順さんは、そういう映画の持つ肌合いや空間の描き方に特別の才能を発揮された映画監督でした。
93歳というご高齢を鑑みれば、これもまた致し方ないことと思いますが、やはり無念です。
心よりご冥福をお祈りしたいと同時に、どんなに時代が移り変わろうとも決して色褪せない作品をたくさん残してくださったことに心より感謝したいと思います。

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