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佐渡裕&東フィルのブルックナー第9番、武満徹「セレモニアル」 [音楽]

冬本番の冷え込みが続いています。
先日出かけた丹沢も、もう真っ白けの厳冬仕様に変わっていました。
通勤途上の多摩川の跨線橋から遥か彼方に南アルプスの峰々が白銀に輝く姿が望め、なんだか胸の熱くなる想いです。

そんな寒さが少し緩んだ感のある日曜日、久しぶりにbunkamuraオーチャードホールに出かけ、佐渡裕指揮東京フィルハーモニーによる演奏を聴きに行きました。
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演目は、武満徹の「セレモニアル-An Autumn Ode-笙とオーケストラのための(1992年)」とブルックナーの交響曲第9番です。

この演奏会を聴きに行こうといったのは、実は連れ合いでした。
連れ合いは、学生時代に合唱サークルに所属していたことから、例えばベートーヴェンの第9を歌ったりといった経験はありますが、どちらかというと歌謡曲や7~80年代フォークやニューミュージックのファンで、クラシックは私にやむを得ず付き合っているような風情がありましたから、ちょっとびっくり。
理由を聞いたところ、私が昨年還暦を迎えたことから、何か具体的なお祝いをしたいと思いつつ果たせなかったところに、郵便局に貼ってあったポスターを見、私が武満徹とブルックナーのファンであることを忖度して、どうかと思ったのだそうです。
もちろん、連れ合いも佐渡裕という稀有の指揮者に対する興味は津々だったので、己の期待も込めてのことだそうですが。
それはともかく、そんな連れ合いの気持ちが嬉しく、また、もちろんこのプログラムの魅力もあり、早速東フィルフレンズに登録。チケットを購入したのでした。

ネットからチケットを申し込むと、優先予約の期間中にもかかわらず、よさそうな席は結構埋まっていました。
さすがに佐渡裕だなあ、と妙に納得。

演奏会への期待は並々ならぬものがありましたが、オーチャードホールに行くためには、あの猥雑な渋谷道玄坂界隈を歩かねばなりませんから、その点だけは憂鬱です。
案の定ひどい人ごみで、ホコテンでもなかったので、歩道は溢れんばかりの人でごったがえしていました。

さて、演奏会ですが、今回の公演はワンステージ。
つまり、二曲を続けて演奏し、途中休憩はなし、ということです。

観客席は、8分くらいの入りというところでしょうか、ところどころに空席はありますが、まずまずでしょう。

「セレモニアル」は、副題が「An Autumn Ode」となっており、これは「秋の頌」ということでしょうか。
頌は頌歌のことであり、特定主題に基づく格調高い抒情詩のことをいいます。
例えば、ベートーヴェンの第9に用いられたシラーの詩などはその範疇に入りますし、場合によっては読経などもそういえるのかもしれません。
この曲では、前奏と後奏が笙の独奏となっていて、奏でられる主題は「秋庭歌」「秋庭歌一具」から引用されています。
耳を澄まし神経を集中させなければ聞こえないほどのあえかな笙の音によりその主題が奏でられ、それがやがてホール一杯に響き渡ります。
宮田まゆみならではの表現力といわざるを得ません。
その主題を、客席の3方向に設置されたフルートとオーボエが受け継ぐのですが、ノンビブラートはもちろんノンタンギングで演奏されるその音、特にオーボエなどは竜笛の音を彷彿とさせました。
やがてオーケストラが、それらを包み込むように響きだし、晩年のあの艶やかで優しく美しい武満サウンドが展開する。
そして、最後に笙が残って主題を奏でるのですが、何とも不思議な深淵に導かれるような音楽なのです。
武満さんの音楽、殊に晩年は、その独特な美しい和音が大変印象に残りますが、この曲も同様です。
武満さんの音楽を「深海の音楽」と評した方がおられ、確かにそういう感じもあろうかとは思われますが、私はその響きからいつも抜けるように透明な空と光を感じます。
魂が浄化されていく、という点では、ある意味ブルックナーの音楽にも共通するようにも思われるのです。
この曲の演奏時間は10分足らずでしたが、何というか、ひたすらその響きの中に身を置いていたいと思わせる作品でした。
ところで、これは一面気の毒なことではありますが、近くにおられた初老の男性が風邪を引いておられたらしく、我慢しつつもしきりに咳をし、とまりません。
笙の後奏ではそれがひときわひどく、これには参りました。

万雷の拍手に宮田さんが送られると、続いて本日のメインプロともいうべき、ブルックナーの交響曲第9番の演奏が始まりました。

ブルックナーの交響曲第9番を実演で聴いたのは1993年のこと(朝比奈隆&東京都響)で、今回の実演鑑賞は26年余りのことになります。
この時の演奏は筆舌に尽くせないほどすさまじいもので、特に第3楽章では、85歳の年齢を全く感じさせない迫力に満ちたものでした。
今回は二回目の実演ということで、ブルックナーの交響曲第9番をこよなく愛していると公言している割には甚だ少なく、この点は忸怩たるものがあります。
元来私は大変なものぐさなので、傍らにシューリヒトやヴァントなどによるレコードやCDがあると、てっとり早くそれを聴くことで目的を達しようとしてしまう嫌いがあり、聴いてみたいというプログラムがありながらも重い腰を上げることがなかなかできませんでした。
その意味でも、今回、連れ合いが提案してくれたのは勿怪の幸いというところでしょう。

佐渡裕は、皆様既にご案内の通りバーンスタインの弟子でもありましたから、ついつい1990年3月のウィーン楽友協会大ホールでの師匠の演奏を想起してしまうのですが、当然のことなのでしょうけれども、趣は全く異なります。
強いて共通点を上げるとすれば、第2楽章などにみられる恐るべき統制力。
正しく一分の隙もない演奏でありました。
全体としても、テンポを極端に動かすことはなく、巨大な構築物や遥かなる山並みを仰ぎ見るかのような微動だにしない堂々たる演奏で、これは全く「正統な」ブルックナーの響きといえるのではないでしょうか。
佐渡裕の描き出そうとする音楽的な宇宙を、東フィルは素晴らしいアンサンブルで実現させています。
弦から金管・木管そして打楽器に至るまで、正に彫琢され統率された美しい響きを繰り広げ、私たちを至福の空間に誘ってくれました。
特にホルンの素晴らしさはどうでしょう。
この曲に限らず、ブルックナーの交響曲にはホルンの印象的な(それゆえに演奏するのには極めて困難の伴う)ソロがいくつも登場しますが、このソロを受け持ったホルン奏者の音は、私の想像をはるかに超える美しい響きを届けてくれます。
もちろんホルン全体のアンサンブルも素晴らしく、こんなに安心して実演のホルン演奏に身をゆだねられるのは久しぶりのことでした。
ただ、これはあまりにも張り切りすぎたからか、第1楽章ではややホルンが突出していたような気もします。
もう少し弦の和音を前面に出して欲しかったと、ちょっとないものねだりをしてしまいました。
また、ワーグナーチューバも同様に素晴らしい響きを醸し出しており、第3楽章の練習番号B(29小節)の冒頭の和音で少し乱れがあったものの、その後の演奏は乗りに乗って、コーダの終盤、練習番号X(231小節)の第7番の主題を回想するところなどは、正に夢見心地でその響きを楽しんだものです。

素晴らしい演奏でした。
観客のマナーも上々で、皆、この正に一期一会の感動的な演奏を聴けた悦びに浸っていたように感ぜられます。
私は、大変恥ずかしいことですが、ブルックナーなどの演奏についていえば、例えば先日聴いたバイエルン響などのような独墺オーケストラによるものが一番だという思い込みがありました。
何といっても歴史的な重みに違いがありますし、独墺のオケのメンバーの大半が当該国民であるが故の共鳴のようなものもあると考えていたのです。
しかし、この佐渡裕&東京フィルの演奏を聴き、改めて日本のオーケストラの底力を痛感しました。
この演奏は、(あくまでも私見ですが)先日のバイエルン響に勝るとも劣らないものだと思います。
こんなことをいうと「セコいかな」とは思いますが、彼我の料金差(4分の一くらいの値段で聴けます)は全く感じられません。
しかも、聴こうと思えばその機会は十分にある。
そういう環境に自分がおかれている幸運に改めて感じいったたところです。

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モーツァルトのレクイエム、ホグウッド&エンシェント室内管弦楽団&合唱団 [音楽]

気温の変化の激しい日が続きます。
今日は少し暖かくなっているようですが、気温の変化が激しいと、どうしても体調を崩しがちになってしまい、先日還暦を迎えたこともあって、さすがにきついなと感じています。

モーツァルトレクイエム
長らくジュースマイヤーによる補作版による演奏が一般的でした。
私も、何度かこの曲の演奏には参加してきましたが、もちろんジュースマイヤー版です。
ジュースマイヤーによるオリジナル(SanctusやBenedictusなど)はいうに及ばず、モーツァルトの真筆とジュースマイヤーの加筆が施された部分においても、両者の違いは明らかで、その点での違和感はもちろんありますが、ジュースマイヤーの仕事は決していい加減なものではなく、モーツァルトの残した指示などに基づいてどれほど忠実に真摯に向き合っていたかがひしひしと伝わりますし、何よりもこの曲を、きちんとしたカトリック典礼の形に整えて後世に伝えた功績は大なるものがありましょう。
モーツァルトの絶筆となったLacrimosa。8小節目で途絶えた師のあとを繋いで彼が完成させました。
別宮貞雄氏などは「この甘美といえるほどの旋律で始まるLacrimosaを、ジュスマイヤーはなんとか平凡ではあるが、ひきのばして終わらせている」と酷評していますが、私は、この曲を歌いながら、そのジュースマイヤーの想いを忖度し何度もこみ上げてくるものをあらがうことが出来ませんでした。
8小節までの、奇跡的に美しい旋律を、懸命に守ろうとしたひたむきなジュースマイヤー。それが最も如実に表れていると私は思います。これを「平凡」に「ひきのばし」たとは、あまりに酷い言い方だな、と。

この版の定番中の定番はベーム&ウィーン・フィルによる演奏です。

私感ではありますが、この演奏ではジュースマイヤーの手の入っている部分、殊にAgnus Dei以降が素晴らしく、私は強く心を奪われました。

しかし、個人的なお勧めということであれば、リヒター&ミュンヘン・バッハによる演奏を挙げたいと思います。

何という真摯な演奏でしょう。
正にリヒター&ミュンヘン・バッハの真骨頂というべき演奏ではないかと思います。

そのモーツァルト・レクイエムの版問題に対する活性化の端緒の一つとなったのが、「ホグウッド&エンシェント室内管弦楽団&合唱団、ウェストミンスター・カテドラル少年聖歌隊」による1983年の演奏録音です。


この演奏・録音には、校訂を行ったイギリス音楽学者リチャード・モーンダー氏ご自身が参加しており、完璧を期そうとした意気込みが見て取れます。
古楽器・小編成、声楽はビブラートを抑え、長らく主流を占めてきたロマン派的な演奏とは一線を画すものであり、想像ではありますが、恐らくモーツァルトの生きた時代の音はこのようなものであったろうと感じさせます。
一番の特徴は、1961年にヴォルフガング・プラートによって発見された「Amen fuga」を、恐らくこのレクイエムのために作られたものと判断し、Lacrimosaのあとに独立して配置したことでしょう。
これはまさに驚くべき壮麗な曲であり、このフーガを聴くだけでも、この盤の存在意義はかなり高いものがあると、私は考えます。
因にそのスケッチは以下の通りです。
amen.gif
この「Amen fuga」を見ると、モーツァルトが、Lacrimosaで一つの区切りをつけ改めてOffertoriumの「Domine Jesu」を始めようとしたことがわかります。
つまり、Introitus(入祭唱)、Kyrie、Sequenz(続唱)、Offertorium(奉献唱)、Sanctus(聖なるかな)、Agunus Dei(神の子羊)、Communio(聖体拝領唱)という、鎮魂曲の様式に沿うような構成を企図したのでしょう。
モーツァルト晩年の傑作アヴェ・ヴェルム・コルプスが美しい和声を響かせる合唱曲であるのに対し、この曲が対位法の極致といもいうべきポリフォニーのめくるめく世界を展開させるのも、ある意味、カトリック典礼に則った厳格なレクイエムの形を目指した創作意図によるものであるからなのかもしれません。

しかし、モーツァルトはついにSanctusを作ることができなかった。
そのためジュースマイヤーはこの部分を創作したのですが、ジュースマイヤーが手を入れた部分はモーツアルトの真筆とは認められないとするモーンダーのクリティカルな方針から、SanctusやBenedictusなどは割愛しています。
従ってこの演奏は様式的にカトリック典礼から外れたものとなりますから、モーツァルトにこの曲を依頼したヴァルゼック伯爵の注文を満足するものにはなりえなかったと思います。
その意味からすれば、やはりジュースマイヤー版の価値は十分に評価されるべきでしょう。

とはいえ、今日、この曲をカトリック典礼に則った宗教曲としてのみ聴くことはほとんどないものと思われますし、従って、あくまでもモーツァルトの残した芸術の一つとして考えるのであれば、最も原点に近い姿を再現しようとの想いを以てこうした版を校訂する意義はあると思います。
尤も、モーツァルト自身が、この校訂版をどのように評価するのか、こればかりはわかりませんが。

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仮名手本忠臣蔵 [音楽]

昨日までの小春日和が一転、冷え込みが厳しくなっています。
快晴の空は誠に美しく清々しい限りですが、風も強くてさすがに身に応えますね。
風邪やインフルエンザの流行は予想以上に猖獗を極めていて、私の職場でも罹患して休む人が急増しています。
私もまだ完全には風邪が抜け切ってはおらず、だましだまし出勤しているような状況で、何ともやりきれないものを感じますね。

三宅坂にある国立劇場は、今年、会場50周年を迎えました。
記念公園が目白押しの中、先日、文楽「仮名手本忠臣蔵」を観てきたところです。
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長尺の演し物なので、大序から六段目までを第1部、七段目から十一段目を第2部として、分けて上演されることが多いのですが、今回は通しでかけられました。
ただ、時間の都合もあって、私は第1部(大序から六段目)までしか観ることができず、その点はいささか残念でしたが、それでも、朝の10時30分から短い休憩を二回はさんで16時過ぎまでかかるのですから、見ごたえは十分です。
しかもこの中には「塩冶判官切腹(四段目)」「早野勘平の腹切り(六段目)」など、涙なくしては観られない名場面もありますし。
1966年に建てられた国立劇場の客席の椅子のすわり心地はあまりよくなく、長い時間座っているとお尻が痛くなるのですが、それでも時間を忘れて舞台に見入っていました。

仮名手本忠臣蔵自体は、正しく人口に膾炙された演し物ですから、内容についてわざわざ記す必要もないことでしょう。
「芝居の独参湯」とも呼ばれ、経営難に陥った芝居小屋でも、これをかければ大入り満員、一気に黒字に転換といういわば打ち出の小槌みたいな演目ですから。

幕藩体制の中で、幕政にかかわる演目をそのままかけるのはご法度だったこともあり、時代を足利将軍時代に移し替え、四十七士をいろは仮名47文字で暗喩した「仮名手本」という名前を付するという、なかなかに気を使った背景もありますが、もちろん当時の観客も題材となっている事件を念頭に楽しんだわけで、足利将軍時代にはなかった鉄砲が出てきたり、暦応では生まれてすらいなかった世阿弥作の「高砂」が出てきたりと、時代背景はむちゃくちゃです。
まあ、幕府も、体裁だけは暦応年間ということにしてあるし、登場人物も足利直義や高師直にしてあるからお目こぼし、ということなんでしょうね。
あまりうるさいことを云って民草の楽しみを奪ったり反感を買うのは得策ではないと考えたのでしょうし。

私は活字としての浄瑠璃が好きで、文楽そのものについてはさほどの知識を持たないのですが、それでもこうして舞台で人形の動きを観つつ太棹と義太夫語りを聴くのは楽しみの一つです。
今回の演し物は浄瑠璃中でも大作なので、大夫も三味線もたくさんの演者が任に当たりました。
若い方々もたくさんおられ、こうした伝統芸能を受け継ごうとする確かな流れがあることもうれしく思った次第です。

さて、舞台の方ですが、やはり六段目の勘平の腹切りには参りました。
話の筋を知っていても、泣けて泣けて仕方がありません。
終わった後に連れ合いの感想を聞くと、眠っていてよくわからなかったといいます。
おいおい、それはないだろうと難詰したところ、連れ合いの隣に座っていた、いかにも観劇慣れしたように見える和装のご婦人もずっと寝ていたよ、といいます。
それを聞いて、もったいないことだなとは思いましたが、浄瑠璃も音楽の一つですから、素晴らしい演奏を聴きながら眠るのもそれはそれでいいことかもしれませんね。

久しぶりの文楽の実演を観ましたが、人形の演技はもとより大夫や三味線などの音曲も十分に楽しめ、第1部だけとはいいつつも大変満足しました。
ただ、これは私だけの感覚なのでしょうが、人形遣いが素面・裃で操る姿にどうしても違和感を感じざるを得ません。
せっかく人形が絶妙な演技をしているのに、その人形に寄り添う人の顔がそのまま見えたのでは興覚めに思えるのです。
やはりこれは黒子であって欲しいな、と。

帰り道、赤坂プリンスのクラシック・ハウスに立ち寄りました。
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せっかくなので、中に入ってお茶を飲んだのですが、良い雰囲気の割には価格もコーヒーが一杯500円と、比較的リーズナブルでおすすめです。

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マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響によるマーラーの交響曲第9番 [音楽]

小春日和が来たと思ったら真冬並みの寒さが到来するという、この時期特有の不安定な天候が続き、天城山行前から引いていた風邪がなかなか抜けません。
熱も大して出ていなかったので、気合で治す!とばかりに頑張ったのが裏目に出ました。
結局、先週の土曜日、近くの総合病院に出かけ、抗生物質や炎症止めの薬を処方してもらって何とか落ち着いたというところです。
連れ合いや妹などにいわせれば、「還暦にもなれば若いころとは違って自力で治すことなんかできないんだから、最初からおとなしく病院に行けばよかったのに」との、全く仰る通りの御託言。
肝に銘じている次第です。
お昼の楽しみであったウォーキングも、そんなわけで自重していたのですが、昨日久しぶりに出かけてみると、既に晩秋の趣でした。
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公孫樹の黄葉がまぶしい限りです。

さて、いささか古いご報告となりますが、11月27日の日曜日、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響によるマーラーの交響曲第9番を聴いてきました。
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このコンビによるサントリーホールの公演は、おととしのちょうど今頃、連れ合いと一緒に聴きに行って以来です。
今回は、クラシック音楽を通じ、それも共にマーラー好きということで長年の付き合いとなっている友人と二人で出かけました。
友人は神戸でのこのコンビによる同曲の演奏を既に聴いているとのことで、「すごいですよ!」と私をたきつけます。
それでなくてもマーラーの交響曲の中で(選ぶのは非常に悩ましいのですが)一番好きな第9番を、あの「ヤンソンス&バイエルン放送響」の実演で聴くことができるのです。
風邪で具合は最悪でしたが、そんなものはどこかに忘れてしまうほど、聴く前から興奮してしまいました。

サントリーホールは入口から混雑していて、会場もほぼ満席。
「今回の演奏では途中休憩はありません」としつこいほどの場内放送があり、それを受けてか、男性の手洗いまで長い列ができていました。

チェロとハープに導かれてホルンの物憂げな旋律で始まるAndante comodoの第1楽章が始まると、場内には適度な緊張感を伴う安らぎの時間が流れ始めました。
さざ波のようなビオラに導かれて第2ヴァイオリンが主題を提示し始めると、正にため息をつかんばかりの弦の美しさに陶然とさせられます。

この楽団の弦の素晴らしさは云うまでもないことですが、今回の演奏では特に金管の美しさに瞠目しました。

特にトランペット!
第9番の中で、私は第3楽章に一つのキーポイントを感ずるのですが、この楽章の抒情的な中間部のトランペットの音色(殊に350小節から始まる第1トランペットのソロ)の澄み切って悲しみをたたえたような音が、いまだに耳朶を離れません。
これは本当にトランペットの音なのだろうか?
何というのか黄泉の国から響いてくる天使の歌声(もちろん想像の産物ですが)のような感じさえ受けました。
この主題は終楽章においてさらに大きな広がりを見せて展開されるのですが、その先取りであるこの楽章での現れ方に、改めて深い感動を覚えたところです。
もちろん、複雑で精緻な対位法によって目くるめく展開される第3楽章の荒々しい表現とのコントラストがあればこその美しさではありますが、実演はもとより、CDやレコードでも、これほど美しいトランペットの音色に接したことはありません。
これを聴けただけでも私にとっては得難い演奏会となりました。

この曲、ワルター&ウィーン・フィルによる初演、バルビローリ&ベルリン・フィル、バーンスタイン&ベルリン・フィル、ノイマン&チェコ・フィル、大植英次&NDRなどなど、正に枚挙の暇もないほど数々の名演奏録音が残されています。
実演でも取り上げられる機会が多い曲の一つでしょう。
そうした中でも、今回の演奏は間違いなく最上位のものの一つと感じました。

それから、以前も書いたのですが、この日の聴衆も大変素晴らしい鑑賞態度でした。
演奏中の集中度合いは云うに及ばず、終楽章の最後の弦の最弱音が消えてホール内の残響が収まり、ヤンソンスが両手を下して肩の力を抜くまで、皆固唾をのんでその瞬間を見守っていたのです。
その後、まさに割れんばかりの拍手とブラボーの嵐。
ヤンソンスは何度もアンコールを受けて舞台に戻され、観客の熱い声援に応えていました。
オーケストラが引き上げた後も、ヤンソンスは一人舞台に戻り、何度も挨拶を返します。
こういう素晴らしい大団円は、何度接しても気持ちのいいもので、実演の感動をさらに高めてくれるものでしょう。

なお、今回の公演ではアンコール曲の演奏はありませんでした。
あのマーラーの第9番を、これだけのエネルギーと情熱を以て演じきった指揮者とオーケストラに、そんな余力など残っていようはずもなく、また、この素晴らしい演奏の後にどのようなアンコール曲を持ってきても、所詮それは蛇足に終わってしまうのではないでしょうか。
アンコールを求める拍手もありましたが、私としては「無し」で大いに納得です。

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トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルによるブルックナー交響曲第7番 [音楽]

秋雨前線と台風の影響などで、このところ関東は晴天から見放された感があります。
来る日も来る日も雨ばかりで、心も湿りがちになってしまいますね。

こういう気候の時には、音楽に耳を傾けながら気持ちを静め、また、その中から新たな世界を眺めてみるのがいいのかもしれません。

以前、「ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによるブルックナーの交響曲第9番」という記事を書いた折、できればトスカニーニによる第7番の演奏を聴いてみたいものと記しました。
大変うれしいことに、gkrsnamaさんよりこの録音がネットにアップされている旨のコメントを頂いたところです。
簡単なreplyをコメント欄に付しましたが、改めてこの録音のことを少し取り上げてみたいと思います。



1935年1月27日、カーネギーホールでのライブ録音。
オケはニューヨーク・フィルです。

1935年ということを考えれば仕方のないことなのでしょうが、やはりノイズが気になります。
しかし音質は思ったほどひどくはなく、少なくともトスカニーニの意図するところをある程度汲みとることは可能と思います。
ただし欠落箇所が結構あることから、隔靴掻痒の感を強くしますが。

この曲が完成したのは1883年9月のことで、ワーグナーの死去を悼んで第2楽章のアダージョに葬送の音楽(184小節から)を付加したことでも知られています。
何よりも、ブルックナーの交響曲が初演で好評を博す嚆矢となった作品であり、第4番と並んで現在に至るまでも高い人気を保っています。

トスカニーニとブルックナーとは、どうもあまり親和性を感じない部分もあり、実際、晩年にあれほど精力的な演奏活動を共に行ったNBC交響楽団とのコンビによる演奏や録音も見当たりません。
しかし、記録によると、第4番や第7番はしばしば取り上げていたようで、1896年12月には早くも第7番のアダージョの演奏を行っていたそうです(この年の10月にブルックナーは亡くなっておりますから、きっとその追悼という側面もあったのでしょうね)。
また、ブルックナーの故国であるオーストリアとかドイツなどではいざ知らず、遠く海を隔てた米国では、その当時、まだまだブルックナーの音楽に対する理解が深かったとは云えなかったと思われますので、トスカニーニの試みは、今から思えば非常に意義深いものがあったのではないでしょうか。
そのような演奏を、80年を経て聴くことができることを心から喜びたいと思います。

さて、まずは第1楽章です。
情感たっぷりの、遠い世界から光が注いでくるような美しい演奏が始まりました。
24小節のフライング・ホルン(練習番号「A」の一拍前のアウフタクト)は、改訂版のお約束みたいなものですが、原典版を聴きなれた耳にはやはり不自然に聞こえます。
尤も、ハース版が世に出たのは1944年のことですから、それ以前の楽譜では当然の演奏なのですが。
それから、これは後の楽章でも顕著なのですが、ティンパニが様々な形で飛び入りをします。この楽章では練習番号E(a tempo)の前の4小節をトレモロで入ってきます。
その他、第2ヴァイオリンのエコーが省略されていたり、ホルンに(楽譜には記載のない)フルートが補強されているように聞こえたり、あれれ?と思うような部分もありますが、ノイズによるものか私の聞き間違いなのか判然としません。
ただ、「楽譜に忠実」というある種のトスカニーニの謳い文句とは異なる表情たっぷりの演奏で、オケにはところどころ不満もありますが、聴きほれてしまう部分も多くありました。

しかし、コーダの最後の438小節からあとの6小節が欠落!これは酷い!ざんねーん!
(記している小節や練習番号の表記について、私が所持しているスコアは1980年発行のハース版ですので、楽譜によるズレがあると思われますから、その点についてはご留意のほどを)。

次に第2楽章。
トスカニーニ自身がかなり以前から演奏をしてきた曲ということもあるのでしょうか、抑制された中にも、彼独自のカンタービレが感ぜられる感動的な演奏です。
練習番号W(177小節)から打楽器が付加されていますが、これはハース版以前の演奏形態です。
そして、肝心の葬送の音楽が始まって間もなくの189小節から192小節の4小節が欠落しています。これも酷い!

第3楽章のスケルツォ。この録音の中では唯一欠落がないので安心して聴けました。
こういう音楽ですと、トスカニーニの小気味の良さが功を奏するのか、誠に快調でノリノリです。
先にも書いたティンパニの付加。この楽章は特に顕著で、ハース版の楽譜ではトレモロになっているのにもかかわらず、随所で、金管や木管や弦楽器の付点音型をなぞって補強しています。
原典版を信奉する向きからすればとんでもない改変ですが、なんだかウキウキとさせられるような楽しさを感じてしまいました。
ブルックナーの曲がこんなに面白くていいのだろうか?などとも思ってしまいます。

いよいよフィナーレに突入します。
第7番を聴くとき、第3楽章のスケルツォからフィナーレに至るまでの曲の流れ込みが、私には大変印象的で、少々荒っぽい第3楽章のトゥッティから弦による第一主題までの変遷が何とも云えない心地良さを感じさせてくれます。
この演奏の出だしも非常に快調で、トスカニーニの面目躍如だな、などと思っていると、同じく弦による主題提示のはずの第二主題が金管に取って代わられていました!
これは、練習番号Eにおける第二主題でも同じです。
改訂版も含めてこのような演奏はこれまで聴いたことがありません。これはトスカニーニのオリジナルな改変なのでしょうか。
これ以降も、楽譜にない楽器の付加が断続的に表れます。それも弦楽器のパートに管楽器を加えて表情をつけるというような感じで、このあたりにトスカニーニの明確な意図の表れを見ることができるようにも思われます。
極めつけは練習番号N(163小節)からのクラリネットの対旋律の追加。
こんな旋律は寡聞にして聴いたこともないので、(個人的な想像ではありますが)トスカニーニが誂えたものではないかと思われます。
それとも何か由来や理由があるのか。
その前の145小節から158小節は録音が欠落しています。
さらに練習番号RからUまで(209小節から256小節まで)の48小節をカット!大胆すぎ!スコアを読んでいて、突然飛んでしまったので、次がどこなのか大いに慌ててページをめくりました。
そして曲の終盤に向けてティンパニを付加し、金管も補強して一気に大団円に向かいます。

何度か聴き込めば、さらに新しい発見があるのかもしれません。
聴いてみて最初に思ったのは、これは、いわゆるブルックナー愛好者には受け入れがたいところが多々あるだろうな、ということです。
しかし、トスカニーニが活躍していた若かりし頃、現役時代のブルックナーとも一部重なっていたことでしょうし、本人や弟子たちによる曲の改訂が半ば当然のように行われていたことを考え合わせると、長大な曲を如何に退屈させずに観客に聴かせるかという観点から手を入れたことは容易に想像できます。
弦楽器のみの主題提示に管楽器を重ねあわせたり、独自の対旋律を入れたりというのも、弦楽器だけでは響きが物足りないと考えたからなのかもしれません。
ブルックナーの音楽においては、こうしたコントラストの存在こそが聴くものに愉悦とカタルシスを与えてくれるのだと思いますが、後期ロマン派の音楽の一つという捉え方の中では、やはり物足りないものを感じたのでしょう。
その意味では、フルトヴェングラーのブルックナーの演奏とともに、如何にも時代を感じさせるものだと思います。
録音による欠落は非常に残念ですが、これはこれで大変貴重な遺産といえるのではないでしょうか。

因みに、ヒンデミットが指揮したニューヨーク・フィルによる第7番もyoutubeにアップされていました。

https://www.youtube.com/watch?v=i6Q2qiSdu44



こういう大曲の演奏が、ほぼ完全なままでネットにアップされ、無料て聴ける。
良い時代なのかもしれませんが、これではわざわざCDやレコードを買う人も少なくなることでしょう。
そんなことが続いて、本当に欲しい名演奏のCDなどが手に入らなくなったらどうしよう、などとちょっと心配になりますね。
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瀧廉太郎「憾」 [音楽]

ようやく梅雨が明けました。
平年よりも十日ほど遅れての梅雨明けとのことです。
久しぶりに30度を超す暑さとなり、日課にしているお昼休みのウォーキングでも、少し熱中症を気遣ってしまった始末。
もちろんそれほど極端な暑さにはなりませんでしたが。

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた痛ましい連続殺人事件。
19人もの方が亡くなり、24人の方が重軽傷を負いました。
犯行に及んだ容疑者の「動機」も含め、連日、テレビ新聞やネットなどを賑わしているので、事件そのものについて詳述することは控えます。
この事件の契機となった、「障害者は周りの人を不幸にする。いない方がいい」という容疑者の思想。
大麻や措置入院が必要なレベルの精神疾患などによるものなのかどうか然とはわかりませんが、自身「ヒトラーが降りてきた」と話しているように、その優生主義的な方向性がこの凶行を呼び起こしたのだとすれば、極めて恐ろしいことだと思いました。
こういう考え方をする人、有名どころでは曽野綾子氏や渡部昇一氏といった名前がただちに思い起こされますが、今回の植松容疑者の犯行を非難する人々の中にも近い考え方を持っている人がいるのではないか。
ネットなどを覗くと、「社会に役に立たない(役に立たなくなった)人間は、社会に迷惑をかけないように身を引くべきだ」「社会の役に立たない人に税金をつぎ込むのはおかしい」的な考え方がそこかしこにアップされていて、それなりに(閉じられた世界ではあれ)支持を受けているように見えるのです。

人間は社会的な生き物である、ということは一つの理です。
この理の本筋は、人間が生きていくためには「社会」という枠組みや構造が必要である、ということだと私は考えているのですが、社会を存続せしめるために人間は生存を許されている、と考える人もいる。つまり、人間の価値を「社会の役に立つか立たないか」で判断する、ということなのでしょう。
そういう人たちから見れば、障碍者などの社会的弱者は、社会に過剰な負担をかけないようにひっそりと暮らしなるべく早く社会の一線から身を引け、ということにつながってしまうのではないか。
植松容疑者は、特に重篤な障碍のある方から順に襲っていったといいますし、衆議院議長宛の手紙の内容などから鑑みて、この種の考え方を先鋭化させていったものと思われます。

こうした論争における非常に興味深い記述が「ヤフー知恵袋」に掲載されていて、ネットでも話題になっていますので、ご紹介します。

弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが、疑問に

この「ベストアンサー」には頷かされました。

人間は、いわゆる食物連鎖の頂点にいる「最強者」と考えられてきましたが、生身の生物としては、恐らく生態系の中でもかなりの「弱者」に位置するのでしょう。
単独行の多い私は、常日頃そのことを痛感しています。
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

この真理について、私たちはきちんと認識しなければならないのではないかと改めて思いました。

さて、そんなことをつらつら考えていたら、なぜだかわかりませんが、瀧廉太郎の絶筆であるピアノ曲「憾(うらみ)」を唐突に思い出してしまいました。
溢れんばかりの才能を有しドイツへの留学も果たしながら、彼の地で結核に罹患し23歳という若さで早逝してしまった瀧廉太郎。
この曲を聴いていると、この題名でもある「憾(うらみ)」つまり「心残り」「無念」という瀧の想いが胸に突き刺さるような気がします。
youtubeにアップされていましたので、宜しければお聴きください。



私がこの曲のことを知ったのは、恥ずかしながら映画「わが愛の譜 滝廉太郎物語」においてでした。
1903年という20世紀初頭に、西洋音楽という括りからは完全に行進国であった日本において、このような完成度の高いピアノ曲が生まれていたこと。
そのことに深く感動したことを思い返しています。

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バルビローリ&ウィーン・フィルのブラームス交響曲全集 [音楽]

穏やかなお天気になりました。
昨日は肌寒かったので、特に春の温もりを感じます。

そんな肌寒いさなか、お花見に出かけました。
アークヒルズの桜坂を起点にしましたが、ライトアップもなされていてなかなか感動的な眺めでした。
sakurazaka201604.jpg

もうだいぶ古い情報で恐縮ですが、サー・ジョン・バルビローリ指揮ウィーン・フィルによるブラームスの交響曲全集のCDが発売されました。


1966年から67年にかけてのセッション録音で、4つ交響曲のほかに「悲劇的序曲」「大学祝典序曲」「ハイドンの主題による変奏曲」という「定番」の曲目もセットされており、三枚組で1470円と、信じられないほどのお買い得品です。

バルビローリはイギリスの出身ですから、ヴォ―ン・ウィリアムズやディーリアスといったイギリス音楽を得意としたのはもちろんのことですが、ブラームス、マーラー、シベリウスの作品でも超絶的な名演奏の録音を残しています。
客演したベルリン・フィルのメンバーを感激させ、是非にと楽団員から望まれて録音したマーラーの交響曲第9番は正に歴史的な名演ですし、オケの性能としては少し見劣りのするハレ管弦楽団を指揮したシベリウスの全集録音も素晴らしいものでした。

オーケストラから「是非に!」と望まれる指揮者は本当に幸せ者だと思いますが、もちろんそれは当人にそれだけの素晴らしい資質が備わっているからにほかなりません。
ウィーン・フィルのメンバーも、バルビローリを「神がかり的」と讃えて、この録音を残した。
その両者の想いがたっぷりと詰まった演奏といえるのではないでしょうか。

ウィーン・フィルが古今東西を通じて一流のオーケストラの一つであることは論を俟ちませんが、私個人としては、特に1960年代の響きの素晴らしさが強く印象に残っております。
典型的な演奏として、例えばシューリヒト指揮によるブルックナーの交響曲第8番と第9番の録音があります。
この弦の美しさは、殊に筆舌に尽くしがたく、始めてレコードで聴いたときには思わず涙があふれてきたものです。

このブラームスの交響曲全集に話を戻しますと、いずれもまことにユニークな演奏ではないかと思います。
バルビローリの演奏には独特の「ため」のようなものがあり、それゆえに例えば第1番などは人によって好みが分かれるのではないでしょうか。
私も、第4楽章の終結部のコラールを聴いたとき、そのたっぷりとした表現にちょっと驚いたものです。
しかし、決して冗長なわけではなく、バルビローリにとって必然ともいうべきいき方なのでしょう。
始めは驚きましたが、聴きこむほどに引き込まれていく演奏です。
第2番と第3番も、文句のつけようもない素晴らしさです。
第2番は、この曲における決定版の一つではないかと思われますし、弱音の表現に拘った第3番も、「なるほどこの曲はこういう曲だったのか」と改めて気づかせてくれる演奏です。
そして第4番!
これは聴いていて胸を鷲掴みにされるような演奏でした。
ブラームスの交響曲の中でも、私は特に第4番がお気に入りで、レコードやCDも数多く所持しておりますが、これはそのトップクラスに位置する演奏だと感じております。
私は以前、チェリビダッケがミュンヘン・フィルを率いて来日した折に、この曲の実演を聴いたことがあります(1986年10月)が、これは全身寒気立つほどの超絶的な演奏でした。後にも先にもこれをしのぐ実演に巡りあうことはないだろうと確信したほどです。
それでも、レコードやCDに限って云えば、すぐさま数多の名録音を想起することができる。
そのかずかずの名録音の中に、このCDも入りました。

バルビローリは、1970年、ニュー・フィルハーモニーを率いて初来日をする直前に心臓発作で逝去します(享年70歳)。
その来日を楽しみにしていた日本の音楽ファンの失意は如何ばかりだったことか。その当時中学生だった私は、当然、この名指揮者の名前も知らず、もちろん、来日が実現していたとしても、当時の環境を慮れば聴きに行くことはほぼ不可能であったと思います。
それでも、こうして残された録音を聴くことができ、その瞬間、時間は無意味なものとなる。すごいことだなとしみじみ思います。

ブラームスが、交響曲第1番を作曲するのに二十有余年をかけたのは有名な話です。
ベートーヴェンが、このジャンルにおいて不滅の傑作を9曲も残したことから、これを超える作品を作れる目途が当時の作曲家たちには全く立たなかった。
ブラームスは、バッハやヘンデル、ハイドンやモーツァルトなど、バロック後期から古典派までの作品の研究や改訂を熱心に行っていたことから、交響曲というジャンルで一端の作品を作り上げる難しさをもまた痛感していたことでしょう。
何度も何度も書き換えてようやく完成した第1番も、ハンス・フォン・ビューローの「ベートーヴェンの第10番目の交響曲」という賛辞(皮肉?)を俟つまでもなく、その影響から完全に解き放たれるわけにはいきませんでした。
第1番を聴いた友人から「第4楽章はベートーヴェンの亜流のようだ」といわれたブラームスは、「そんなことはロバにだってわかるさ」と吐き捨てたそうです。
そうした葛藤を経て、第2番・第3番と発展を重ね、ついに不滅の第4番の交響曲に至る。
ブラームスの交響曲を聴いていると、なんだかそうしたブラームスの深い想いがひしひしと伝わってくるような気がしてなりません。

そういう、完成度の高い曲だからということもあるのでしょうが、ブラームスの交響曲は、実力のあるオーケストラが演奏した場合、あまり指揮者を選ばないような気がします。
つまり、楽譜に書かれた指示を守って正確に演奏すれば、ほとんど破綻なく聞かせることができるのでしょう。
私が苦手としているカラヤンでも、ブラームスの交響曲だけはあまり抵抗なく聴くことができました(尤も、ほかに聴きたいレコードやCDがたくさんあるので実際にはほとんど聴くことはありませんが)。
そうであるだけに、個性的でありながらも心を揺さぶられる演奏というものにはなかなか出会えません。
このバルビローリ&ウィーン・フィルの演奏は間違いなくそうした演奏のひとつであると、私は確信しております。
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時代を超越する音楽と時代を感じさせる音楽のこと [音楽]

連日、冷え込みが厳しくなっています。
首都圏でも雪が降り、交通機関はほぼマヒ状態に陥りました。
月曜日、駅構内への入場制限、列車の間引き運転、駅での発車待ちなどの影響で、職場への出勤に4時間半(通常は1時間半弱)を要しました。
もちろん車内は大混雑。
ようやく乗れた列車も各停車駅で長時間の発車待ちとなり、さすがに疲れ果てました。
乗車後小一時間ほどして少し体を動かすことができたのでiPodを出し、ブルックナーの交響曲7番を聴き始めました。
そして、8番が終わるころにようやく仕事場に到着。
この二曲のトータルの演奏時間は3時間弱かかりますから、状況をご想像頂けるのではないかと思います。
ブルックナーのおかげで少し心は和みましたが、出勤だけで一日の体力の大半を使い果たしたように感じたところです。

現在、都内の雪のほとんどは消え、日陰に多少残っている程度となりました。
hikagenoyuki.jpg
しかし、天気予報によると土曜日にはまた雪が降るようです。
先日出かけた丹沢も、通勤途上で眺める限り相当量の積雪があったようで、近々時間を作って出かけてみたいなと思いました。

ブーレーズの訃報に接し、久しぶりに彼の指揮によるワグナーの「リング」を鑑賞しました。
全曲とまではいかず、「ラインの黄金」と「ワルキューレの騎行」のみではありましたが、そのクリアなサウンドに改めて瞠目した次第です。

その後、何となく思いたち、フルトヴェングラー指揮による「トリスタンとイゾルデ」を聴きました。
フラグスタートがイゾルデを歌った1952年録音の演奏で、65年近く前のものです。
直前にブーレーズの精緻な演奏で耳を洗われていたせいもあるのでしょうけれども、いつも以上に生々しく聴こえ、音だけのものであるのにもかかわらず、そこにうごめく登場人物の輪郭や情景が実体を持った重みで迫ってきました。
もちろんモノラルでありますし、音質も(デジタルリマスターとは云い条)極上とはとてもいえません。
しかし、何と云いましょうか、正しく今現在ここで演奏がなされて、その音の渦の中に自分が入り込んでしまっているという精神状態に陥ってしまったのです。
少なくとも、「65年近く前の演奏」という時代を全く感じませんでした。

無論、前出のブーレーズの「リング」も同じです。
40年という時間の隔たりは一切感じさせず、そこにワグナーの楽劇「リング」が繰り広げられている、という思いに浸らせてくれました。

「芸術は未来において完結する」

これは、小説家福永武彦が著作「草の花」の中に書いている言葉ですが、創造された作品のみならず、再現芸術である演奏においても、やはりそうした境地は存在するのだなと、改めて感じ入った次第です。

J.S.バッハやモーツァルトそしてベートーヴェンを始め、私の大好きなブラームス、ブルックナー、マーラーといった人たちは、それぞれ、17世紀・18世紀・19世紀・20世紀を生きた、その意味では「過去」の人々ですが、残された曲からは、それに接するたびに新しい発見をさせられる。まさに現代に脈々と生をつないでいる確かな存在です。
これらの曲を聴いて、それが作られた過去の時代をことさらに意識することはなく、大げさな言い方をすれば時空を超えて永遠にそびえる創造物、とさえ感ずるのです。
逆に云えば、こうした長い年月を強かに生き、かつ未来に向けてもいささかも陳腐化しないであろう作品こそが、こうして現代に生き残り私たちに音楽を聴く喜びを与え続けてくれている、ということなのでしょう。
ちょっと語弊があるかもしれませんが、例えば「モーツァルトとその時代の音楽」などというコンセプトで、同時代に活躍した作曲家(現在では一般にほぼ忘れ去られた存在)の作品を紹介する、という企画があった折、そうした作品に接すると、「なるほどモーツァルトの時代の音楽っぽいな」などというように当該時代背景などをまず考えてしまいます。音楽そのものの質ではなく、それが生み出された時代の響きという観点で受け止めてしまう。
モーツァルトの音楽が、あたかも永遠の生命を有しているかのごとく、たった今そこに存在している、という感動を以て受け止められるのに比して、何という違いかと思います。

今ではもうあまりいわれなくなった感もありますが、「懐メロ」というものがあります。
私の父は、(子供の私を音楽好きにするほどに)様々なクラシック音楽を愛好してきた人間で、それこそバロックから始まって、ドビュッシーの「海」やストラヴィンスキーの「春の祭典」まで聴いておりました。
それが、私が高校生になるころだったのではないかと思うのですが、昭和初期の歌謡曲のシリーズものLPを買い求めるようになり、懐メロばかりを聴くようになりました。
当時、40歳代の半ばを迎えた父に、どのような心境の変化があったのかはわかりませんが、恐らく自身の幼少時から青年時代に想いを馳せつつ、その当時の様相などを反映するこうした曲を聴き、その「時代」を懐かしんでいたのではないかと愚考します。
自分の若き日を懐かしむ心が、その時代を反映する懐メロにシンパシーを抱かしめる。
今思うと、そういう音楽の聴き方があっても、それはそれで良いことだろうと思うのですが(当時はかなり反発した記憶があります)。

こうした「懐メロ」を聴く感覚は、恐らく、先に述べたブーレーズの「リング」やフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」における時代を超越した感動を求めるものとは全く逆で、むしろその同時代的意識を喚起することそのものに喜びを見出すものなのでしょう。
つまりこうした音楽を「懐メロ」として聴いている限りにおいて、そのリスナーの存在こそが「懐メロ」の存在意義なのです。それにシンパシーを感ずるリスナーがいなくなったしまった時に、同時にこうした楽曲もその命を失うことになるのではないでしょうか。

そして、それは演奏の場合でも当てはまってしまう。
ワグナーの曲を例にとれば、大好きな曲の一つに神聖舞台祝典劇「パルジファル」がありますが、私が最初にその全曲盤を購入したのは、カラヤン指揮ベルリン・フィルによる演奏でした。
全編がこれ以上ないほど完璧に彫琢され、正に光り輝くような美しい演奏で、このコンビの計り知れない実力に打ちのめされたことを思い出します。
ところが、ほどなくして、クナッパーツブッシュ&バイロイト祝祭歌劇場管による1962年の演奏に接すると、今度はその造形の巨大さと時代を超越した響きの深さに圧倒されました。
パルジファルの成長と、クリングゾルの呪いから解放されるクンドリの魂の浄化とその最期までの情景が、眼前に目くるめく展開されて大団円に至る光景がありありと浮かんできたのです。
まだ若かった私は、そのあまりの違いに打ちのめされ、それ以降、クナッパーツブッシュの大ファンになってしまいました。

50歳に近い壮年となったあるとき、久しぶりにカラヤン&BPOの「パルジファル」を聴きましたが、彫琢された美しさは感じたものの、私はそこに(自分自身の)過ぎ去った時代の面影を見たのです。それ以来、私はその演奏を耳にすることはなくなりました。
もちろん、クナッパーツブッシュ&バイロイト祝祭歌劇場管の演奏は、今でも私にとって大切な愛聴盤です。
録音年代からすればこちらの方がはるかに古いのに、今聴いても少しも時代を感じさせません。感動を以て一気に聴きとおしたときのことを鮮やかに思い出させてくれるばかりです。

芸術というものは本当に不思議なものです。「時間」という、万物の存在を統御する巨大な力を、しばしば空無化してしまうのですから。
そういう演奏を、たとえレコードやCDという媒体であろうとも所持することができる幸せ。
ありがたいことだなと改めて感じずにはいられません。

タグ:懐メロ
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類まれなアーティストの訃報 [音楽]

暖冬といわれていましたが、先週末から本格的な冷え込みが始まり、都心でも雪が舞う冬の様相となってきています。
宵の空に浮かぶ三日月が冴え冴えと美しく、零度まで下がった早朝の空気はピンと張りつめた清々しさまで感じさせてくれました。

デヴィッド・ボウイが亡くなりました。


享年69歳で、癌による闘病の末のことです。
ビートルズの解散後、様々な方向性をもったロックスターが登場してまいりましたが、その中でも極めて異彩を放つ存在で、1972年当時、一応「多感」な高校生の端くれでもあった私にも強い衝撃を与えたことを思い返しています。
尤も私個人としては、キング・クリムゾンやピンク・フロイド、ムーディ・ブルースといったプログレッシブ・ロックに血道をあげていたことから、熱心なファンというわけでは決してありませんでしたが。
むしろ、「戦場のメリークリスマス」など、映画俳優としての存在感の方が印象に残っています。
私はまだ未見ですが、ニコラス・ローグ監督の「地球に落ちてきた男」は、正にデヴィッド・ボウイのための映画というべき作品で、その魅惑的な姿を見るだけでも価値がある、という評価もあるようですね(個人的には、ジョン・フィリップスの音楽に多大なる興味があります)。
2004年に心臓疾患で倒れ、その後、第一線からは退いたと思われていた2013年に突如iTunesで配信開始、世界を驚かせ、今年1月に最新アルバムを発表。ファンを驚喜させた直後に死去。
何ともドラマティックな人生だなとため息をついてしまいましたが、やはり69歳で逝去とは残念無念です。
もっともっと活躍して欲しかった。

ピエール・ブーレーズが亡くなりました。


享年90歳。
年齢を鑑みればやむを得ないこととは思いますが、やはり大きなショックです。
指揮者としての活躍があまりに大きかったため、一般には見過ごされがちですが、いわゆる「現代音楽(しっくりこない表現ですね)」の作曲家として、メシアンなどとともに並ぶことのない大きな存在でした。
極めて厳格なトータル・セリエリズム(総音列技法)による楽曲の創造に取り組み、ピアノソナタ第2番(1950年)やストリュクチュール(構造)第1巻(1952年)などの記念碑的作品を生み出します。
そして金字塔ともいうべき「ル・マルトー・サン・メートル」が生み出され、十二音技法の将来性に対して大きな希望を見出すことにつながったのでした。
十二音技法やセリエリズムなどについての詳しい説明は省きますが、無調性つまり調の束縛からフリーになることを目指してより自由な音空間を構築しようとの試みでありました。
それを達成するために、オクターブの中に存在する12の音を一回ずつ使用しかつすべての音が出そろうまで同じ音を使ってはならないという縛りを設けます。
これは音の高さのみですが、トータル・セリエリズムでは強弱・アタックポイント・音色など音楽を形成するすべての要素において、同じような制限を設けようというわけです。
試してみればわかるのですが、これは非常に困難な作業で、しかもその中に創造者としての明らかな個性も盛り込まねばなりません。
ブーレーズと親交のあったジョン・ケージが、この行き方に疑問を持って袂を分かち、それならいっそのこと完全なる偶然性に頼った楽曲の創造(チャンス・オペレーション)に向かったのもわかるような気がします。
こうした厳格な考え方から、十二音技法の生みの親でもあるシェーンベルクに対しては、例えばウェーベルンなどに比べてロマン派的な形式をとどめていると批判し、同じような理由でバルトークなども批判的に見ていました。
そもそも、十二音技法自体がトータル・セリエリズムからみれば中途半端、と考えていたのかもしれません。
ものすごい徹底ぶりですね。

そして、こうした考え方を、指揮者となってからも踏襲したことは特筆すべきことではないかと思います。

先にも書きましたが、ブーレーズといえば、恐らくウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロンドン響、クリーヴランド管、ニューヨーク・フィル、シカゴ響といった一流どころのオーケストラでの指揮、バイロイト音楽祭への出演などに示される、指揮者としての活躍の方がより大きいのではないか。
ニーベルングの指輪全曲演奏とレコーディング及びビデオ化やマーラー・チクルスの完成、ウェーベルン作品の全曲録音、ラヴェルやドビュッシーやストラヴィンスキーの楽曲における積極的な解釈と演奏など、指揮者としての功績においても正に枚挙の暇がありません。
さらに、自身の楽曲をはじめとする現代音楽の演奏にも積極的に取り組み、多くの作品を紹介しました。
ブーレーズといえば、知的・精緻といった評価がただちに返ってくるのではないかと思いますが、例えば「ニーベルングの指輪」の全曲盤(ライヴ)などに接すると、バイロイト祝祭歌劇場のあの深いオーケストラピットの中からの音とはとても思えない緻密かつクリアな響きが溢れてきます。
私は、この(賛否両論のあった)パトリス・シェロー演出のニーベルングの指輪全曲盤LD(なんと「レーザーディスク」です)を所持しておりますが、演技と音楽との極めて緻密な融合には正しく舌をまく想いがしました。
フルトヴェングラー、ベーム、ショルティなどによる全曲盤のLPも当時は所持していましたし、映像ではサヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団によるヴィデオも持っておりましたが、これほど視覚・聴覚面で完全なる一致を見た演奏は寡聞にして知りません。
恐るべき才能と感性だと感じました。
その精緻な演奏は、この壮大な悲劇的ドラマの有する悲しみをたたえて、間然とするところがありませんでした。

今、改めて振り返ってみれば、アーティストとして文字通り稀有の存在であったと思います。

職業的な指揮者の嚆矢はハンス・フォン・ビューローではないかといわれておりますが、それ以前は作曲家がオーケストラの指揮を兼ねることがほとんどでした。
古典派以前の、オーケストラで音楽を聴くということがいわゆる特権階級の娯楽であった頃はいざ知らず、市民階級や労働者階級まで聴衆や観客の範囲が広がってくると、音楽演奏の提供に当たって、やはりそうした聴衆や観客へのアピールを考えなくてはならなくなります。
職業的な指揮者は、生み出されてくる作品を、如何にこうした相手方にわかりやすく感動的に届けるかにも腐心しなくてはなりません。
従って、作曲家でもあり指揮者でもあるアーティストは、いつしか自分の創造する作品に対してもそうした観点を取り入れ、嫌な言い方を敢えてすればその作風は折衷的で複合的な傾向、さらに敢えて言えば一種大衆迎合的な性格を帯びてくるのではないでしょうか。
ツェムリンスキー、フルトヴェングラー、クレンペラー、バーンスタインなど、指揮者として一流であった人たちが作曲した作品を聴けば、やはりそこにはそうした傾向が色濃く表れるように思われます。
その意味では、マーラーやリヒャルト・シュトラウスも例外ではありえなかったことでしょう。

しかし、例えば、ウェーバー、ベルリオーズ、ワグナーといった人々は、指揮者としても極めて斬新かつ先鋭的な表現を用いつつも聴衆を魅了する力量を示したうえ、自身の生み出す作品は常に新たな地平を見据えていて決して妥協などはしなかった。
ブーレーズは、恐らくこうした、今は途絶えてしまったかに見える真に創造的なアーティストの系譜に連なっていたのではないでしょうか。

90歳という年齢に鑑み、今回の訃報はやむを得ないこととも思いますけれども、こうしてブーレーズさんを失ってしまった後、それに続く才能が見いだせないことは、やはり無念でなりません。
無理を承知なのはわかっておりますが、やはりもっともっと長生きをして頂きたかった。
心の底からそう思います。
あの、悲しいまでの精緻な響きが、今も耳朶に蘇ってきます。

ピエール・ブーレーズ/エラート録音全集(14CD)


ル・マルトー・サン・メートル ブーレーズ&EIC


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お気に入りの十曲 [音楽]

2015年もあとわずかとなりました。
冬らしくない暖かな日が続いておりましたが、ここにきて真冬並みの寒波が襲来しています。
気温の差が大きくて、さすがに身に応えるなあと、何となく年を実感してしまいました。

職場近くにある公園は、小さな規模ではありますが、箱庭のようにきれいにまとまっていて、楓の紅葉もなかなか風情がありました。
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公孫樹の葉の敷き詰められた雰囲気も味わい深いものがあります。
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一歩踏み出せばJR中央線や新宿通り・外堀通り・首都高などの幹線に接するような位置にある公園なのですが、都心であってもこういう景色を眺められることはありがたい限りですね。

今年は、個人的に大変大きな変動のあった年になりました。
連れ合いの闘病と私自身の転職という二つだけでも、結構持ち重りのするような事案でしたし、その上、小さなことながら、私自身の内科初入院というのも、なかなかの破壊力を発揮したものです。

そんな2015年もあとわずかで終わり。
来年はどんな年になるのだろうね、などと連れ合いにふとつぶやいたら、

「何か楽しいことを考えましょう。例えば自分が美味しいと思うものを十個選ぶとか。あなたの場合だったら大好きな山とか音楽とか、いろいろあるでしょ。2015年の終わりを迎えた今時点のものでいいから考えれば、きっと面白いと思うわよ」

といい、えーと、私が美味しいと思うものはあれとあれと、などと楽しそうに指を数え始めました。

なるほど、これは面白いと、私も早速その妙案に乗っかった次第です。

そんなわけで、あくまでも今時点で頭に浮かんだ大好きな曲を十曲掲げてみました。
  1. J.S.バッハ:マタイ受難曲
  2. ブルックナー:交響曲第9番
  3. マーラー:交響曲第9番
  4. 武満徹:アステリズム
  5. ブラームス:クラリネット五重奏曲
  6. 三木稔:あだ
  7. ワーグナー:トリスタンとイゾルデ
  8. ヴェルディ:椿姫
  9. ラフマニノフ:晩禱
  10. ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」

ご承知の通り、特にクラシック音楽は演奏によって全く別物になりますので、本当はこれらの後にお気に入りの演奏を併せて記載すべきなのですが、今回は煩を嫌って曲名のみとします。
「今時点で」というところにexcuseがあり、とにかく浮かんだ順にそのままタイプし、10個になったところでやめた、というところですので、中途半端になっている点などについてはご容赦ください。

これらの曲は、折に触れて聴く機会が多かったり、特別な思い入れがあったりするものばかりで、例えば「マタイ受難曲」と「晩禱」については自分がステージで歌った経験があるというところが重要なポイントでもあります。
殊に「マタイ受難曲」は、合唱のみならず、65番のアリア「Mache dich, mein Herze rein」を舞台で歌った経験もありますから想いも格別です。
高校生の頃、この曲の全曲が聴きたくて、土木作業のアルバイトをして貯めたお金で4枚組LPレコードを買いました。涙を流しながら何度も繰り返し聴いたこの曲を、まさか自分で歌える機会が訪れようとは全く予想だにしていなかった。
それだけに、やはり真っ先に念頭に浮かんだのでした。

ブルックナーとマーラーの交響曲の中からそれぞれ第9番を選んだ理由は外でもありません。
これらの曲を折に触れて聴く機会が一番多いからです。
とりわけ悲しいことや辛いことがあったとき、これらの曲を聴くことによって、打ちひしがれて悔恨にまみれた魂がみるみる浄化されていくように感じました。
私にとって、正しく「救済の音楽」なのでありました。

武満さんの曲には他にもたくさん魅力的な作品がありますが、あの「クレッシェンド・アド・リビトゥーム」の強烈な印象が頭を離れません。
この曲を聴いていた観客が「どうか、神さま、あれを止めさせて下さい!」と叫んだ気持ちも、よくわかるような気がします。

ブラームスでも悩みました。
もう一つ、即座に頭に浮かんだのは交響曲第4番です。これも、高校生の時に聴いた印象が大変強く残っていて、最後まで悩みましたが、クラリネット五重奏曲には特別の思い入れもあり、やはりこちらを採りました。

三木先生の曲も、もうどれを選んでいいのか本当に迷います。
私自身がその演奏に何度もかかわってきたレクイエムを上げたい気持ちも大きかったのですが、それを抑え、むしろ、日本人が作り上げたオペラの底知れぬ深さと魅力を感じさせてくれた「あだ」を上げました。
三木先生の日本史オペラは、結局9連作となって世に送り出され、「一つの大河や富士山でなく、ヒマラヤ連峰を踏破するのだ」という先生の「気概」が見事に実を結んだのです。
「あだ」は私にとって、初めてその蒙を啓かせてくれた大切な試金石のような存在なのでもありました。

とはいいつつ、私はあまりオペラを積極的に聴く方ではありません。
それでも、「トリスタンとイゾルデ」「椿姫」は閑却するわけにはいかない存在です。音楽を聴くだけでも情景がありありと浮かんでくる稀有の作品だと個人的には思っています。

ベートーヴェンでもやはりちょっと悩みましたが、やはりパッと頭に浮かんだのは「英雄」でした。
この曲は、交響曲のみならず、その後の様々な管弦楽における表現の可能性を示した大きな分岐点となる作品だと思います。
ハイリゲンシュタットの遺書を書き残し自殺まで考えたのちに、このような画期的な曲を創造し得た精神力。正に脱帽ですね。

なんだかんだと書いていたら、音楽だけでいっぱいになってしまいました。

次は、大好きな山、ということで後日また記事にしてみたいと思います。

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