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孤独のとらえ方 [山登り]

山登りのスタイルについて、基本的に単独行である人と、仲間を募って登る人に、なんとなくですが分かれるような気がします。
半世紀くらい前にはスタンダードであった「パーティ」は、チーフとサブというリーダーの元に隊員が組織され、それぞれに「食料担当」「装備担当」「記録係」「天気図作成」などといった役割が付されて統率されていましたが、今や、学生や社会人山岳会でもこうした形態は衰退してきているように思われます(実際はどうなのでしょうか?)。
つまり、仲間を募って登る、というのは、正しく「同好の士」が集まってワイワイ楽しく行動する、という感じになっているようです。
そういう山行にはこのところ全くご無沙汰ですので、あくまでも私の想像の限りでは、というエクスキューズが付きますが。

「何のために山に登るのか」という無粋な問いかけに対して、恐らく山に登っている人たちそれぞれに固有の目的や理由や想いがあろうかと思います。
20年以上も前に、私はそのことについて自分のサイトの記事として書いたことがあります。
改めて読み返すと青臭さに辟易としますが、当時としては正直な気持ちだったのでしょう。やはり一種の現実逃避だったのかもしれません。

都市部での生活を余儀なくされている私たちは、毎日毎日混雑した通勤電車に揺られて出勤し、多くの人々に囲まれながら仕事をし、時には熱くなって議論も重ね、やはり満員電車でもみくちゃにされながら帰宅、くたくたに疲れて泥のように眠る、などという、生物としてはいささか異常な環境の中で日常を生きています。

縄文時代は狩猟が主だったこともあり、人口密度は一万平米に10人くらいのものだったそうです。
つまり、山手線の内側に60人程度の人間しか住んでいなかった、ということなのでしょう。
人間は雑食ですから、木の実・草・虫・動物などなど、生きていくのに必要な獲物は、天候と環境にさえ恵まれれば造作なく手に入ったこと考えられます。
縄文時代が一万年をはるかに超えて長く続いたのも、比較的温暖で安定した気候が続いていたからといえるのかもしれません。
そして地球は再び寒冷化に向かい、自然界の恵みに頼る生活形態では対応ができなくなって、縄文時代は終わりを告げます。
古事記や日本書紀にみられる天岩戸伝説は、恐らく長きにわたって太陽光を遮った天体現象や気候変動を伝えたものなのでしょう。
安定した食料調達のため、人間は農耕の道に進み、作物を栽培し家畜を飼育して、その土地に定着するようになります。
まとまった人間が共同で生活するようになると、そこに暮らす人々は当然に互助の意識をもつようになり秩序や社会性が必要となってきます。
本来、動物は自身の防御本能から個体距離(パーソナル・ディスタンス)を設定し、そこに近づく他者を排除するため攻撃する(あるいは自らが逃走する)ものなのですが、生活のために共に生きる者同士は、その目的ゆえにその距離が縮まることを敢えて忌避しなくなる。
しかし、本能的にはやはり嫌なことなのだろうと思います。
「私たちは愛し合っているからいつもくっついていたい」
などと甘い想いに浸っているカップルだって、恐らく四六時中そばにいたら辟易するのではないでしょうか。
ましてや、何の関係もない赤の他人が自分の個体距離(臨界距離)の中に入ってくるのは、本来耐え難いことだと思います。
通勤時などの満員電車に詰め込まれているとき、私は石になろうと努めています。少なくとも感情を表出させることのないように押し込めます。
そこから逃れようとしても物理的にできないわけですから仕方がありません。何故そんな理不尽に耐えられるかといえば、その中に押し込まれていることが経験上危険な状態ではないことを認識しているからなのでしょう。
考えようによっては誠に哀れな「習慣」だとは思いますが。

そんなわけで、私にとっての山歩きは、そうした日常からの解放が目的といえるのかもしれません。
なるべく人のいない時期やルートを選び、一人の時間を満喫する。
30年以上前の私は幕営による長期単独縦走にはまっていて、一週間から十日間くらいかけた山行に汗を流していました。
同好の士がいなかった、ということもありますが、今振り返ってみれば、あれは単独だったからこそ意味があったようにも思われます。
長期間の縦走となりますと、食料やルートも計画通りにいかなくなることは当然のように起こり、その都度判断を求められるわけですが、単独であるからこそ徒な逡巡といったマイナス要素を排除できるのです(もちろんそれによるリスクは全て自分持ちですが)。

今となっては家庭や仕事上の都合もあり、こうした山行を試みることは困難ですが、たとえ日帰りでも、意識としては全てを自分の判断と責任で行動したい、という想いが強く残っています。
ある種、日常的な束縛から逃れるために山に行く部分もあるわけですから、不思議なことではないとも思いますが。

それから、これはかなり根本的なことであると思いますが、私は単独で山に入っていても、寂しさややるせなさや心細さといったような負の意味での孤独を感じたことはありません。
恐らく単独行を実践している人たちには、この気持ちがわかってもらえると思います。

ところで、こんな記事を目にしました。

中高年男性が軒並みハマる「孤独」という宗教

私は、以前こんな記事を書いたこともあり、仲間外れにされる不安感から友人を求めるのは本末転倒ではないか、と考えています。
のっぴきならない問題が起きた時に、身を挺して助けてくれる人を一人でも持っていればそれで十分。
また、自分としてもそうしてあげたい大切な人がいる、そのことが重要なのではないか、と。
そして、そういう関係性を築くことができるのは、自身の孤独を見つめそれを鍛えることのできる自立した者同士なのではないかと思っています。

ご紹介した東洋経済の記事は、そんな私の思い込みに警鐘を鳴らすものなのかもしれません。
しかし、
国立社会保障・人口問題研究所が今年8月に発表した調査では、65歳以上の高齢者で1人暮らしをしている男性の15%(女性は5%)、およそ7人に1人が、会話の頻度が2週間に1回以下であるという結果だった。また、65歳以上で一人暮らしの男性の30.3%(女性は9.1%)が「日ごろのちょっとした手助け」で頼れる人が「いない」と答えた。

とか、
アメリカの財団が同じ8月に発表した日米英の孤独に関する調査では、孤独であると回答した人のうち、10年以上、孤独であるという割合が35%と、アメリカ(22%)、イギリス(20%)より圧倒的に高かった。

というくだりには考えさせられます。

人は社会的な生き物ですから、たった一人で生きるということはできません。
生きていくうえでの他者とのつながりは基本的で重要な要素です。
ただ私は、そうしたつながりを、家庭とか学校とか会社とか地域(ご近所)といったような既存コミュニティのみに求めるのはどうなのかな、と思います。
既存コミュニティの中にいて得られる安心感は、仮にそこから疎外されてしまった場合、致命的かつ絶望的な喪失感へと激変することになるのではないでしょうか。
従って、そのコミュニティの中にとどまれるように、ある時には自分を抑え同調圧力に身をゆだねていかなくてはならなくなる。
やはり本末転倒だな、とつくづく感じます。

つながるのは組織やコミュニティなどではなく、あくまでも個人なのではないでしょうか。
個人同士で自在にしなやかにつながっていく、そんなつながりこそが必要なのではないかと思います。

その意味では、ブログを通じたつながりというのも非常に有効なのではないか。
事実、私は、私の拙い記事に貴重なnice!やコメントを付けて下さる皆様に対して、個人的に深いつながりを感じています。
なかなか記事がアップできないので内心忸怩たる想いはありますが、拙いながらも記事を書いていこうとするのは、そうした自在なつながりを求める気持ちからくるような気もしています。

何かにつながることによって自分自身の存在を思索し確認する。
ある意味では人間だけに与えられた特権なのかもしれませんね。

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晩秋の入笠山 [山登り]

10月も終わりに近づき、秋も深まってきた感があります。
高峰は徐々に雪化粧を施しており、山は晩秋から初冬の趣といったところでしょう。

この夏、入笠山に案内した友人たちから、「是非ともビーフシチューを食べたい!」とのオファーがあり、マナスル山荘本館に再来しました。

前回、時間の都合で歩けなかったテイ沢から大阿原湿原を回る周回コースを、今回は高座岩に立ち寄って、紅葉を楽しもう、というものです。

比較的落ち着いたお天気が続いていましたが、土曜日の朝はあいにくの雨。
しかし、そのおかげもあってか、週末の中央道にしては目立った渋滞もなく、快適に走ります。
と思ったら、甲府南と甲府昭和の間で事故が発生し、2km・30分という渋滞にはまってしまいました。

それでも10時前にはマナスル山荘に着くことができ、宿泊とお昼のビーフシチューを予約して、小雨の降る中を長谷村につながる入笠山林道を歩き始めます。
お昼ご飯のサービスは14時30分までとのことでしたが、まあ、時間的には余裕だろうと高を括っておりました。

林道わきの樹々にかかるサルオガセです。
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これほどに育っているサルオガセを見るのは久しぶりで、思わず目を見張ってしまいました。

紅葉もだいぶ進んでいました。
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しばらく行くと、「南無入笠観世音」と書かれた石碑がありました。
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登って行って確かめると、蛇をかたどったレリーフが祭られています。
縁起を読むと、昭和38年当時、この小黒川林道の工事を実施していた自衛隊員の夢枕に観世音菩薩が立ち「ここは私(観世音菩薩)が治めた地である。土を掘り起こし、私の神体である白蛇の姿を認めたなら粗略に扱わないように」といった趣旨のお告げがあった由。
そのお告げの通り、掘り起こした土中からこの白蛇のレリーフが出てきたので、工事や山里の安全祈願のために手厚く祀ったのである、とのこと。

小黒川林道は現在補修工事をしているようで、途中から車は通行止めになっていました。
30年位前に、この林道を車で走って戸台に向かい、甲斐駒に登ったことがあるのですが、その当時も、車で走るのには厳しい道でした。

法華道への分岐を見送り、林道の左側に小黒川が流れ、静かな林道歩きを続けていると、右に高座岩への指導票を見つけました。
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濡れて滑りやすい急登を稼ぐと林道に出て、そこにも指導票がありました。
「高座岩・法華道」と書かれた矢印の方向を、林道の先と勝手に思い込み、そのまま林道をたどってしまいました。
25000分の1の地形図には載っていない林道なので、法華道に続くのだと勘違いしてしまったようです。
左側に下る林道を二本やり過ごして緩やかな登りに転じてしばらくしたところで行き止まり。
右上に大岩があったので、あれを回り込むのかと、クマザサの藪の中を強引に登りますが、大岩の周辺で藪はさらに濃くなってしまいました。
どう考えても間違っていると思い、先ほどの指導票まで引き返しました。

注意深く、左側の尾根に至る踏み後を探しながら歩くと、何本かのタラノ木が紅葉しています。
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タラの芽の一本残しはちゃんと守られているんだなと、ちょっと感慨深くなりました。

さて、指導票のところまで戻って周囲を見ると、少し後ろに下がったところに右の尾根に回り込みながら登る踏み後がありました。
指導票では右の矢印になっていたので、完全に私の思い違いです。

踏み後に従って登ると、法華道に出ました。
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そこから一登りで高座岩につきます。
日蓮宗の僧である日朝上人が、見晴らしの良い岩峰を定めてそこで法華経の教えを講じたとされるところで、法華道の由来もそこからきているのでしょう。
眼前には木曽山脈が望まれます。
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私の勝手な思い違いのせいで、大変な道草を食ってしまいました。

小黒川林道に戻ってしばらく歩くと、橋を渡り小黒川を右に見るようになります。
そこからしばらくで、テイ沢分岐。
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25000分の1の地形図では、左側の尾根に登って大きく高巻く道が書かれていますが、実際には沢沿いに右岸・左岸とわたり返しながら進みます。
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透明度の高い穏やかな流れの中には魚影もあり、紅葉した樹々も相俟って、実に好もしい散策路となっていました。
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もちろん、沢沿いの道ですから、足場の悪いところや岩をへつる部分も時折出てきますが、いずれも何ということもなく進めます。

いくつかの橋を渡った時、獲物に出くわしました。
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誠に見事なもので、まさかこんなところに群生しているとは思いもせず、早速、ザックの中から行動食を入れていたポリ袋を出して、行動食を他に移したのち、獲物を少しばかり採取しました。

思わぬ余禄に頬を緩ませて歩いていくと、視界が開けて源頭の趣です。
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左側に威圧的な岩がそびえていました。
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大阿原湿原はクサモジミの最盛期。
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白樺の樹が点々とし、紅葉したカラマツが黄金色に輝いています。

大阿原湿原を後にして、車道をマナスル山荘に向かう道すがら、八ヶ岳方面の展望ポイントから富士山を眺めました。
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八ヶ岳の頂稜には雲がかかっています。
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マナスル山荘では、年に四回、ジャズのライブ演奏会を開いています。

今夜はたまたまその日に当たり、テナーサックスのジェントル山本さんをリーダーに、ベース:広目亮さん、ギター:矢羽佳佑さん、のお三方によるジャズトリオの演奏を楽しむことができました。
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ジェントル山本さんは、近々修行のためニューオーリンズに渡米するそうですが、彼はもちろん、あとのお二方も素晴らしい実力の持ち主で、お酒を飲みながら、久しぶりのジャズの生演奏を楽しむことができました。
「いそしぎ」などのポピュラーな曲における丁寧な編曲とアドリブの素晴らしさも忘れがたいものでしたが、何といってもウェス・モンゴメリーの「フル・ハウス」には痺れました。
この歴史的な超絶ライブのCDを私も所持していますが、久しぶりにその感動がよみがえる心地がしたものです。

演奏の合間、あまりにも月がきれいなので、八ヶ岳展望所まで散歩に出かけてきました。
富士見町はそれほど規模の大きな街ではありませんが、それなりに夜景もきれいに見えます。
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なかなか幻想的で、いい酔い覚ましになりました。

翌朝、5時前に起きて身支度を整え、入笠山山頂を目指します。
もちろん、「ご来光」を見るためです。

日の出は6時過ぎと見込み、5時前に起床。
5時15分くらいに山荘を出ました。

入笠山山頂での雲海は、恐らく麓も冷え込んでいるからでしょう、一部分しか起きていないようです。
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10月の終わりの山頂は、風はないもののさすがに底冷えがします。

6時を回るころ、金峰山の右側が金色になってきました。
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ご来光です。
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この景色はいつ見ても嬉しくなりますね。
陽が昇ると、ありがたいことに体が暖かくなってきました。
太陽の光のすごさに圧倒されてしまいます。

朝の光の中の富士山です。
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入笠山の山頂にはたくさんの人たちがいました。
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槍・穂高連峰も朝日に輝いています。
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さすがに冠雪していますね。

木曽山脈です。
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カラマツが朝日に輝いています。

仙丈岳・鋸岳・甲斐駒・北岳・鳳凰三山などです。
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荘厳な眺めをたっぷり楽しみ、下山しました。

ひかげの斜面は霜で真っ白けです。
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山荘で、ボリュームたっぷりの朝食を頂き、今回も大満足で帰途につきました。

そうそう、例の獲物ですが、帰宅して早速汚れなどを取り、酒とみりんと醤油で煮びたしにして、大根おろしをかけて食べました。
体調のすぐれない連れ合いを気遣って、実家から連れ合いの妹が来てくれていたのですが、二人とも、「あたるといやだから」といって食べません。
野生のエノキダケなんて、そうそうは見つからないんだぞ、と勢い込んだのですが、どうも信用してもらえないようです。
結局私一人が、市販のもやし・エノキとは全く別物の、薫り高く歯ごたえの素敵なエノキダケの煮びたしを楽しんだのでした。

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金木犀と台風 [日記]

台風24号が関東に接近する前に、とりあえず必要なものを買っておこうと、ウォーキングがてら買い出しに出かけました。
朝のうちは怪しい雲もありましたが、昼前からは晴れ間も出て、風も穏やか。
台風が間近に迫っているような雰囲気は感じさせません。

金木犀の香りがそこかしこから漂うようになりました。
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この花たちも、台風の暴風雨を受け、きっとはかなく散ってしまうことでしょう。
なんだか無残な気持ちもしました。

連れ合いのことなどもあり、週末に山に行くこともままならない日々が続いています。
そんな無聊を慰めてくれるのが、近所の里山歩きなのですが、今年は結構獲物(キノコ)が豊作です。
もちろん、松茸やホンシメジといった貴重な獲物には出会えず、いわゆる雑キノコですが、タマゴタケ・ナラタケ・イグチ類・アミタケなどが得られます。
ただし、例の白い笠をかぶった、見た目は食べられそうな毒キノコもかなりあるので注意が必要ですが。
先日、これらを中心にまとまった量の雑キノコをゲットし、一部を塩で煮て冷凍しておきました。
どうやって食べようかと思案中です。
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ところで台風24号、予想通り日本列島各地に深い爪痕を残しました。

私の自宅では、昨晩の1時過ぎに停電となり、復旧はお昼過ぎとなりました。
山道具としてヘッデンやランタンがあるので、暗闇は何とかなりましたが、水が出ないのにはまいりました。
もちろん、飲み水や生活用水はある程度確保していたのですが、御手洗のことを失念していたのです。
幸い、水洗タンクに外部から注水できるタイプだったので、風呂の残り湯を用を足す都度補給し何とか事なきを得ましたが、真っ暗な御手洗の中でヘッデを点けながら用を足すのは何だか山小屋にいるみたいでちょっとおかしくなりました。

また、ガスは問題なく使えたので、煮炊きはでき、これもラッキーでした。
尤も換気扇が使えないので、焼き物や炒め物はできませんでしたが。

いずれにしても、オール電化でなくて本当に良かった。
日頃、水やガスや電気を、そこにあるのが当たり前のように思って使っていましたが、都市においては、電気が止まるだけで水も出なくなり、場合によっては食物の煮炊きすら不可能になる危険性がある。
頭ではわかっていましたが、実際にそういう目に遭うと、その脆弱性がにわかに現実味を帯びてきますね。
オール電化は一時ほどもてはやされなくなっているようですが、そうしたリスクに気付くユーザーが増えている、ということかもしれません。

電気を中心に置いた利便性の向上は、こうした災害時にはもろに脆弱性を曝け出すようです。

テレビのCMなどを見ていると、EV車がトレンドみたいな扱いをされ、人気を博しているような錯覚に陥りますが、街中でしばしば見かけるなどいうことは、少なくとも私にはありません。
アウトランダーPHEVはそれなりに見かけますが、あれは駆動系に内燃機関を持っており、電気一辺倒ではないからでしょう。
その意味で、ハイブリッド車を多く見かけるのは非常によく理解できます。

オール電化やEV車を「エコ」などと表現する場面に出会うこともありますが、これも私は大いに疑問を感じています。

発電された電気が家庭などに届く間には相当のロスが発生することは、その構造上自明の理であり、発電所から変電所そして家庭までの送電の間にその電力の大半を喪失してしまいます。
原子力のように、いったん稼働を始めれば次々に核反応によるエネルギーを(燃料なしに)生み出す、というおとぎ話の世界ならいざ知らず、現在、発電の中心となっている火力では膨大な化石燃料がそれによって費消されます。
その燃料となっている石油やガスをそのまま使ってエンジンを駆動させる方が効率的であろうことは、少し考えればわかることなのではないでしょうか。

これはIHにも言えることでしょうが、たとえ熱効率などの高い製品であろうとも、そのエネルギーのもとが火力発電なのであれば、その電力を作り出す際のCO2の排出量など観点からして、環境にやさしいなどと短絡的に捉えるのはいかがなものでしょうか。
また、原子力によってそれを解決するという夢物語は、福島第一原発事故によって木っ端微塵に吹き飛んでしまいました。

私たちは、あまりにも電気に頼りすぎる生活を見直し、電気の生み出す利便性を享受するという安直な態度から少しずつフリーになる必要があるのではないか。
今回の台風と停電から、改めてそんなことを感じた次第です。

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芸術の創造と訴求力。交響曲を巡って。 [音楽]

以前にも書いたことがありますが、音楽の中で、私はとりわけ交響曲を好んで聴く傾向があります。

haydn.jpg交響曲における、ソナタ形式-緩徐楽章-メヌエット-ソナタあるいはロンド形式、という四楽章制をハイドンが確立させ、序奏-主題提示部(第一主題、第二主題)-展開部-再現部-結尾部(Coda)というソナタ形式もハイドンによって完成されました。
ベートーヴェンが、メヌエットをスケルツォに変更してより抽象性を強め、交響曲の形式をさらに発展・強化させたのはご案内の通りです。

しかし、交響曲の歴史を詳しく見てみると、物事はそれほど単純ではなく、それまでオペラの序曲などに用いられて発展してきたシンフォニアが独立した管弦楽曲となって、18世紀の数多の作曲家がそれを発展させる形で様々な実験を試みていたようです。
その動きは欧州全土に広がり、ウィーン、マンハイム、北ドイツ、南ドイツ、イタリア、フランス、イギリスなどで様々な作品が生み出されました。
18世紀の交響曲に関するカタログは一万章にも及んでいたという事実もあり、それまでの三楽章にメヌエットを加えて四楽章にするという試みも、マンハイム楽派の創設者であるJ.シュターミッツによってなされていたようです。
そうした活動の最先端を走っていたのは、そのJ.シュターミッツ、北ドイツのC.P.E.バッハなどで、ウィーンはむしろ立ち遅れていた存在でした。
ハイドンでも、初期の交響曲などはパリで出版されていたとのことですから、今日の感覚からすれば不思議な気もしますね。

ただ、ある意味からすれば、ウィーンが立ち遅れていたことによって、余計な観念からフリーとなり、ハイドンはより自由な発想から様々な実験や試行錯誤を続け今日に伝わる交響曲の形式を確立し得た、ともいえるのではないでしょうか。
ハイドンの衣鉢を受け継いだモーツァルトの交響曲が、ウィーンに腰を落ち着けてからのハフナー以降とその前との間で大きく変わっているように受け止められるのもこうした背景があってのことかな、などと思ったりもします。

いずれにしても、18世紀当時には正に百花繚乱たる趣があったであろう当時の交響曲のほとんどが現在では演奏される機会もなく、一般の聴衆からは忘れ去られた存在になっていることに、ある種の感慨を抱かざるを得ません。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンによって確立・発展した交響曲の系譜が現在まで命脈を保ち、ロマン派の作曲家たちもベートーヴェンの交響曲をその範として拡大・充実させてきた、ということでしょう。

ブラームスやブルックナーは4楽章制というベースを頑なに守り、ドヴォルザークやチャイコフスキー(第3番は「例外」ですが)もその系列だと思われます。

一方、第9番「合唱付き」は、マーラーによって極限にまで拡大・発展化を遂げます。
マーラーによる4楽章の交響曲は、第1番・第4番・第6番・第9番ですが、第5番や第7番も、序奏の部分が巨大化して5楽章になったという見方もあります。
シベリウスの交響曲では第7番で単一楽章に至りましたが、ベートーヴェンは第5番や第6番で楽章の切れ目なしの演奏を指示していることから、その流れを汲んで純粋に高めた境地の作品ということもできましょう。

一方で、第6番「田園」は、作曲者自身が標題を付けてその意図を明確化したという点でも画期的な方向性を示す作品であり、この曲がなければベルリオーズの「幻想交響曲」もあのような形のものとして確立したかどうかわかりません。
「田園」は、ロマン派によって育まれた交響詩の出発点とも考えられますし、音楽評論家の松本勝男さんによれば、それはスメタナの「モルダウ」にまでつながっていく、とのことで、これは非常に興味深い見解ですね。

さて、18世紀から19世紀にかけて発展を遂げ、特に19世紀に至り、作曲家は、交響曲というジャンルで自己における最大限の表現を達成したいと願った。
ワーグナーのように、ベートーヴェンを神のごとく尊敬しつつ、交響曲というジャンルにおいては到底その域に達することができないとして、楽劇という独自の芸術の道を切り開くとか、リストのように交響詩を創設し新たな表現形式を確立しようとした人たちも、交響曲の作曲は試みているのですから、やはりその範疇に入るのでしょう(リストなどはベートーヴェンの交響曲全曲をピアノ曲に編曲しています)。

文字通り心血を注ぎこんで作品を生み出そうとするわけですから、生涯に世に送り出せる曲数にはおのずから限られます。
交響曲の創作は9曲が限界、という言い伝えも、あながち俗説とばかりはいえないのかもしれません。

ところで、演奏会のプログラムは、
  1. 序曲など短い管弦楽曲
  2. 協奏曲
  3. 交響曲

などという形になることが多いようですが、やはり締めくくりに持ってくる曲は、作曲家が心血を注ぎこんで作り上げた交響曲を、という聴衆の要望が強かったからなのではないかと思います。
私も何度かそういう演奏会に行きましたが、マーラーやブルックナーなどの場合は、交響曲1曲だけ、というメニューとなることも少なくありません。
「春の祭典」や「海」などが締めとなる演奏会もあったりしますが、楽器編成からしても曲の内容からしても交響曲と遜色ない規模の曲でありながら、「最後にドーンと聴きごたえのある交響曲がほしかった」などという聴衆の声も少なからずあるのだそうです。
私も含めて、いわゆるクラシック音楽のファンや聴衆にとって、交響曲はいまだに閑却すべからざる存在なのではないでしょうか。

しかし、以前も書きましたが、20世紀に入って交響曲の創造は徐々に終局を迎え、21世紀の現在では、わずかな例外を除いて、19世紀のように己の創作の重大なメモリアル的作品に位置付ける作曲家はほとんど存在しない状況となりました。

理由はいくつか考えられるのでしょうけれども、音楽の世界でもグローバル化が非常な勢いで進展し、それまでの西洋音楽では考えもつかなかった楽器や表現が創造者の前に開かれ、多彩な音のパレットの中から、それぞれの音の特徴を最大限に生かしたい、つまり、ドビュッシーなどが推し進めた「一音の響き」を重要視する傾向が強まっていったことがあるのかな、と個人的には考えています。
古典的な二管編成から後期ロマン派の四管・五管へと編成は拡大しても、演奏母体であるオーケストラの楽器自体は変わらず、そうした楽器の合奏によって構造的な響きを定まった形式の中で構築する。
大変失礼な言い方をあえてすれば、そうした行き方の中ではもはや新しい響きの創造は困難だと、先達たちの偉業を前にして、20世紀以降の作曲家たちは立ちすくんでしまったのかもしれません。

機能和声や厳格なポリフォニーからフリーとなり、旋律の束縛を排した無調や12音階と発展していった前衛音楽。
しかし、そうした新しい音楽が演奏会のメインに据えられることは非常に難しかったのではないでしょうか。
先ほど述べた演奏会のプログラムの雛形からも類推されるように、聴衆の好みはロマン派以前の作品に向かいます。
私自身、20世紀の音楽、シェーンベルク、ベルク、バルトーク、ウェーベルンなどからピエール・ブーレーズに至るまで、好んで聴きますし、武満徹の音楽などはほとんど「溺愛」しているといっても過言ではないほど聴きこんでいます。
でも、やはり聴いていて最も気持ちが安らいだり感動を新たにしてしまうのは、ブルックナーやブラームスやマーラーだったり、J.S.バッハだったりします。
新しい時代の音楽、特に現在の自分と同じ時間の流れの中にある音楽は、それを同時代性の中から理解しようと努めたりはしますが、真に魂を震わせるような感動を呼び起こされるものにはなりえません。

これは、決して懐古趣味的な観点からのものではないと思います。

先にも述べたように、18世紀中に1万章を超える作品が存在したとされる交響曲の中で、現在も脈々と演奏され続けている曲はほんの一握り。
これらは例外なしに、そうした聴衆の厳しい選別という熾烈な競争を勝ち抜いて残ってきたものばかりなのですから。

さらにいえば、そのようにして現在まで残った名曲ですら、生み出された同時代に、今のような至高の存在になり得ていたわけではありません。
これはおそらく、芸術という、人の内面に働きかけ感動を呼び起こす表現全般に当てはまるものなのでしょう。

例えば絵画の世界においても、ルネサンスから古典主義、ロマン主義、印象派といったあたりの作品を私は好みます。
ラファエロ、グレコ、ルーベンス、フェルメール、ドラクロワ、ミレー、ゴーギャン、セザンヌなどなど。
キュビスムやシュールレアリスムへと時代が進む中で、ピカソやダリやマグリットの作品に胸は打たれつつも、先に挙げた画家のような全幅的な感動にまでは至りません。
20世紀以降では、フランシス・ベーコンとかグスタフ・クリムトなどの例外を除いて、心を激しく揺さぶられるような絵を思い浮かべることがなかなかできません。
現在開催される美術展の中で多くの観客を呼び込む力のあるのは、誤解を恐れずに云えば、やはり印象派以前のものが大半を占めるのではないでしょうか。
進歩派を気取ってはいても、人の心の奥底は相当に保守的なものなのでしょうね。

「芸術は未来において完結する」

芸術家は、いつの時代もそうした重い十字架を背負い続けて、作品を生み出そうとしているのかもしれません。
奥深くも厳しい世界だなとつくづく思います。



締めくくりとして、矢代秋雄さんの交響曲のCDをご紹介します。
20世紀に至って交響曲を世に送り出した日本人作曲家はたくさんおられますが、その中で矢代さんの交響曲こそが本来の形を失わずに屹立した孤高の作品の一つと、私は考えるからです。
欧州に大幅な遅れを取った日本人による交響曲が、このような形で生み出された奇跡に感謝しつつ。
機会がございましたら、是非ともお聴き下さい。

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転職 [日記]

昨日今日と雨模様のお天気となり、酷暑や熱帯夜も少し治まっています。陽もだいぶ短くなってきました。
台風の動きも気になりますが、気温はまたまた高くなりそうな気配です。

今年の9月で仕事を変わりました。
前回の転職から3年ちょっとということで、拙速の感が無きにしもあらず、というところでしょうか。
しかも、まもなく62歳を迎えるところですから年寄りの冷や水もいいところですが、こんな私でも必要と云ってくれる先があることに感激し、このような仕儀となりました。
今年の初詣の際、小さなだるまを買って片目を入れておいたのですが、ようやく両目が入ったところです。
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実は、一昨年の末にもオファーがあり、その折にもだるまを買ったのですが、これは片目のみのままでどんど焼きに行ってしまったのでした。

今回の転職。
連れ合いの体調のこともありますし、あまりリスクを冒したくないとの躊躇もありました。
還暦直前に試験を受けて採用された、前の職場にも、多少の未練は残りました。

しかし、これから先のことをつらつら考えるにつけ、未来に向けた何らかの希望を見通せないことがやはり哀しかった。

仕事は生活の手段かもしれませんが、たとえ小なりとはいえ何らかの達成感は必要なものなのではないでしょうか。
前の職場でも、それを何とか見出そうと頑張り、それなりの信頼関係もようやく出来上がってきていました。
しかし、経営者側などの執行部を動かすことは結局できず、己の非力さと無力さを痛感するばかり。

還暦を超えた人間を正社員として雇用してくれたことを考えれば、その環境を手放すのは得策とはいえないのかもしれません。
余計なことは考えずに、給料に見合った分だけ働き続けるという選択もありえたのかもしれない。
でも、本当にそれだけでいいのかと、そういう想いを私は捨て去りたくなかったのでした。

と、なんだか久しぶりの更新なのに、極私的な状況を書いてしまいました。
忸怩たるものがあります。

タグ:転職 だるま
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入笠山のご来光 [山登り]

記録的な暑さが続いていましたが、ようやく少し治まってきたようです。

7月21日と22日の土日、以前の職場で仕事上の付き合いのあった金融関係に勤務する友人Yさんからの「山に連れて行ってください」とのオファーを受ける形で、久しぶりに、南アルプス前衛の入笠山に登ってきました。

Yさんは、山登りの経験は浅いものの、若い頃は自転車のレーサーとして活躍しておりました。
しかし、就職後の都市銀行大合併劇以降は超多忙となり、運動からは遠ざかることになります。

それでも、7年ほど前に西岳と入笠山に案内したことがあり、あのときYさんはかなりつらい思いをしたのにもかかわらず、その折の感動が忘れられず、是非ともまた登ってみたいとのこと。

お互いにバタバタしていたこともあり、ようやくそれが叶ったというわけです。
Yさんの元部下であり若い友人でもあるKさんも参加することになり、男三人のにぎやかな山登りとなりました。

せっかくなので、マナスル山荘本館に宿泊することとし、2000円飲み放題付きで予約。
学校の夏休みが始まったばかりの週末ではありましたが、6月中に予約を入れることができました。

入笠山だけではもったいないので、釜無山にも登ってみませんか、と提案すると、是非!との回答。
私自身、10年以上前に登ったきりなので、それではそれも予定に入れましょう、ということになりました。

21日、山行きとしてはかなり遅めの8時半頃、国立府中インターから中央道に乗りましたが、思っていたほどのひどい渋滞もなく、11時前には大阿原湿原近くの林道に乗り入れることができました。
この時期、沢入から先の車の乗り入れは原則禁止なのですが、マナスル山荘などに宿泊する客は例外的に通してくれます。助かりました。

林道をしばらく走って、空き地に車を止めて身支度をします。
林道工事がかなり進んでいて、釜無山への登山道はかなり錯綜としているようです。
思い切って林道から山の中に入り、笹薮の薄いところをかき分けながら進みますが、踏み跡はかなり不明瞭になっています。
そのうちにテープなどの目印も消え、踏み跡も判然としなくなりました。
高度計を見てみると、頂上に近くなっていることは確かなのですが、深い藪の中で進むことが躊躇されます。
私一人なら、地図とコンパスを頼りに、強引に薮を漕いで登るところですが、山登りに関してはほとんどビギナーである二人を連れていることから、遺憾ながら引き返すことにしました。
実際、藪の中で足を取られ、脛を倒木で打ち付けたりしていた様子でしたから、これ以上無理をさせるわけにもいきません。

「すみません、予想以上に道が荒廃しているようで、あきらめましょう」というと、何となく安堵した表情を浮かべつつも、「残念ですね。登ってみたかった」などと嬉しいことを云ってくれました。

この辺りのカラマツ林ではサルオガセがたくさん見られますが、お二人にとっては物珍しい光景のようで、どういう生態なのか興味津々。
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これは地衣類で、霧のかかる山中に繁茂し、霧などの空中の水蒸気を吸って生息している、いわゆる寄生植物ではない、食べようと思えば食べられるが決して美味しいものではない(出汁は出るけれども)、みたいなことを断片的に説明しました。

さて、釜無山登山に敗北した我々は、気を取り直して入笠山に登るべく、マナスル山荘本館に向けて車を走らせました。

釜無山方面では、登山者の姿を全く見かけませんでしたが、さすがに桁違いの多さです。
申し訳ないと、頭を下げつつ車を走らせます。

マナスル山荘本館で宿泊手続きを済ませ(もちろん飲み放題付き!)、早速、入笠山に登ります。
ものすごい人出で、さすがに驚かされました。
山ボーイや山ガールそして中高年ハイカーなどが群れを成していて、「登り優先」という山登りにおける一応のルールもものかわ、傍若無人に降りてくる様をみていると、さすがにうんざりしました。

前回は巻道コースを登ったYさん。今回も巻道コースを選びそうだったので、「岩場コースといっても全く大したことはなく、眺めはこちらの方が良いですよ」と説得して、岩場コースで登頂。
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山頂は大賑わいでしたが、八ヶ岳・北アルプス・中央アルプス・南アルプス・富士山などの周囲の山々は全て雲がかかり、これは完全な期待外れとなりました。
しかし、富士見の街中や諏訪湖などの下界の景色は眺められたので、お二人も満足な様子でした。
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山頂でゆっくりと昼食をとって休んだ後、下山にかかります。
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アザミの花にミツバチがとまっていました。

せっかくなので、首切り清水と大阿原湿原まで足を延ばすことにしました。

首切り清水にはこんな表示があります。
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生水を飲むとピロリ菌に感染するリスクがあるので、こうした表示をすることが増えているのでしょう。
冷たくて美味しい水なのに、少し残念な気がします。

入笠山周辺はあれほど混み合っていたのに、大阿原湿原では人影を見ません。
我々三人だけで独占しているような、ちょっと誇らしげな気分で散策しました。

少し時期が外れているせいか、湿原の中ではほとんど花の姿を見ません。
マツムシソウとワタスゲ、時折クルマユリやホタルブクロを見かける程度ですが、湿原の中にシラカバなどが点在する風景はなんとも云えない風情があります。
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これはテイ沢への分岐です。次回はここを通ってみたいものです。
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テイ沢の源頭です。
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大きな岩がありました。
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さて、飲み放題の開始時間は16時とのことなので、それを楽しみにマナスル山荘本館へ向かう足取りも心なしか軽くなります。
到着したその足で、まずは汗を流そうと浴場に向かいました(なんとマナスル山荘本館では風呂に入れるのです)。
先客お一人おられ、我々三人が入ると、狭い浴室はまさにイモ洗い状態。
しかも、洗い場のお湯が出ず、お湯で体を洗おうとすれば浴槽のお湯(浴槽の蛇口からはお湯も水も出ました)を使うしかありません。
私は水でも平気なので、(冷たい水ではありましたが)洗い場で体と頭を洗いました。
浴槽は三人入ればいっぱい。なんだか若い頃に入居していた社員寮の風呂を思い出します。
それでも、山小屋で風呂に入れるのは贅沢の極みです。ありがたいことだと感謝してしまいました。

飲み放題メニューは、ビール(プレモル!)・清酒・ワイン・焼酎・ウィスキーなど豪華絢爛です。
ロビーには、これを楽しみにしていたと思しき宿泊客が集まり、所々で宴会が始まっています。
我々も楽しく飲み始めましたが、18時からの夕食までは抑え気味にしようね、などとできもしない取り決めをしつつ、やはり次から次へと摂取。
何といってもプレモルのうまさが最高で、これで2000円とは信じられない限りですね。

夕食は、分厚い牛肉を焙烙で焼いたものをメインに、これまた充実しており、途中から飲み物をワインに代えて、たっぷりと楽しみました。

飲み放題は20時で終了。
そんなわけで、終了間際に行き掛けの駄賃とばかりに、たっぷりお酒をコップに注いで部屋に戻って余韻に浸ります。

何となく星が見たくなり、お酒を飲み終えたのをしおに、星を見に外に出ました。
上弦の月がまばゆいばかりで、そのすぐ下には木星が輝いています。
そこから右に目を転ずると土星がありました。
月明かりのせいか、星の見え方はあまりよくありませんでしたが、北斗七星などは明確にわかります。
ほかの星座を特定できなかったのは、月明かりのせいばかりではなく、きっと飲みすぎて思考力が虫並みになっていたせいでしょう(虫に失礼かな)。

翌朝、4時に起床。
今回の山行のもう一つの目的、入笠山からのご来光を見に出かけることにします。
二人を起こして、手早く支度をし、登り始めます。
酒が残っているせいでしょうか、足元がふらつく中、頑張って山頂を目指します。

日の出の直前に到着。私たちのほかには親子連れの三名の方だけがおられました。

日の出前の山頂は静寂そのもの。
下界は雲海に包まれ、昨日見えなかった周辺の山々も雲海の上に聳えています。
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赤岳と権現岳の間が黄金色に輝き始めました。
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ご来光です。
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入笠山の山頂も陽の光に輝き始めました。
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周囲の山々も光を受けています。
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たっぷりと堪能した後、巻道を使って下山。
木々のあいだに朝の光が差し込んでいます。
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山荘に戻って、朝食の時間まで横になりました。

朝食も非常に豪華で、契約農家からの新鮮な卵を使った卵かけごはんは絶品。
また、パンも山荘で焼いているもので、これまた絶品!
コーヒー・牛乳・リンゴジュースも用意されていて、中途半端なホテルの朝食など軽く一発KO!という感じです。

昨日の夕食といいこの朝食といい、さらに風呂にまで入れて、一泊二食付き9200円は、ここが山小屋であることを鑑みて正に破格だと思います。
食休みをしてから入笠山湿原まで足を延ばしました。
規模的には大阿原湿原に遠く及びませんが、最盛期には花もたくさん見られ、人気のスポットです。

帰路、道の駅「蔦木宿」にある蔦の湯に浸かって疲れを癒し、ソフトクリームを食べ、野菜などを購入し、七賢酒造に向かいました。
ここで各々お酒を購入し、ガストで昼食を取った後、中央道で帰りました。
途中、事故が二件もあり、残念ながら渋滞に巻き込まれましが、それでも17時くらいには帰り着くことができ、一安心。
というのも、そのあと中央道ではさらに事故が頻発し、夜遅くまで厳しい渋滞となったようですから。

いろいろと予想外のこともあった今回の山行ですが、お二人はそれなりに満足してくれたようで、今度は是非ともあのビーフシチューを食べたい!と、再来を誓っています。
私としても、こうして地元の山のファンになってくれるのはありがたい限りですから、その折にはお付き合いをしようと考えております。

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日南・北郷の岩壺山(敗退) [山登り]

このところ梅雨の中休みといった感じで晴れ、気温も30度を超えたりしています。
それでも梅雨空になると気温は一気に20度前半に落ち込むので、油断はなりませんね。

そんな梅雨の晴れ間を利用し、久しぶりに宮崎の山に出かけてきました。
二年前に登った花切山の付近を調べていたときに印象に残った岩壺山に登ろうではないか、と、九州の山仲間に誘われたのです。
連れ合いも、「せっかくのお話なのだからいってらっしゃい」と言ってくれたので、その言葉に甘えたところです。

岩壺山は北郷町の北に聳える738mの山です。
標高的にさほどの高さではないと思われるかもしれませんが、このあたりで700mを超える標高は貴重な高さです。
下調べの段階の情報では相当に山深い感じで、猪八重川の源頭に位置する登り甲斐のありそうな山でした。

6月23日、雨の中を宮崎まで飛び、北郷町に向かいました。
二~三日前の予報ではこの週末は雨だったので、降りしきる雨の様子にかなり悲観的な想いとなっておりましたが、なんと前線が南に下がって、日曜日からの南九州はぽっかりと晴天になる予報に変わっていました。

24日は絶好のお天気となり、勇躍して猪八重渓谷駐車場に向かいます。
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駐車場には、我々以外の車は一台も見当たりませんでした。

猪八重渓谷遊歩道は入り口から最奥の五重の滝まで2.6kmあり、距離もさることながら、吊橋を含む7つの橋を渡り、勾配もかなり急で上り下りもあり、遊歩道とは云い条、しっかりした足回りを要求されます。

降雨が続いたためか、水量はかなり多い印象です。
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こんな切通のようなところもあります。
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わきから流れ込む支流に威圧的な滝がありました。
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こんなところは丹沢の檜洞を思い起こさせます。
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これは流合の滝。
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これが岩壺の滝。
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そしてこれが五重の滝です。
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豊富な水量を落としております。奥の直漠を登るためには右壁をアブミで越える必要がありそうですね。
尾鈴川のケヤキ谷に同じような感じの紅葉の滝がありました。
やはりアブミで乗越したのですが、そのときのことを思い出しました。
尤も、今回は沢登りではありませんから、眺めるだけですが。

遊歩道はここが終点です。
ここから本太郎駐車場までさらに急登が続きます。

登りきると本太郎駐車場。
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ここに通ずる林道は崩壊しており、いまだに復旧の予定もないことから、当然のことながら車の影もありません。

さてここからが本日のメインイベント。
不明瞭な踏み跡をたどって岩壺山を目指します。
ふと、同行者の様子をうかがうと、どうも顔色がよろしくありません。
どうしたのですかと尋ねると、実は体調が思わしくなく、ここまでは付き合えたのだが、これ以上は厳しいご様子。
申し訳ないが、私はここからゆっくり猪八重渓谷の駐車場に戻るので、一人で登ってきてくれないか、とのこと。
いや、それは心配なので私もここから引き返しましょう、と申し上げたのですが、飛行機を使ってここまで来てくれたのにそれではあまりにも申し訳ない、私は一人で戻れますから、どうか行ってきてくださいと言われてしまいました。

正直に云えば、ここまで来たのだから先に進みたいという気持ちが強く、それでは恐縮ですが、行かせていただきますと、答えました。山屋は自分勝手だなと思いつつ。

そんなわけで思いがけず単独行となったのですが、どこか少し気持ちが楽になったことも否めません。

本太郎駐車場から林道を進むと、道標が現れました。
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この道標が曲者で、矢印の方向には踏み跡はありません。
仕方がないのでトライアルパーク北郷方面に進むと、草の生い茂った広場に簡易トイレが埋もれている場所に出ました。
そのあたりをしばらく調べてみましたが、確信の持てる踏み跡は見つからず、いったん道標の地点に戻ります。

慎重に辺りを調べてみると、右側の斜面をのっこすところにたよりなさげなテープを見つけました。
そこを藪を漕いで登ります。
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しばらく藪を漕いで行くと、小さな沢に降りる崩壊した斜面に行き当たりました。
テープに従って、慎重に崖を降りて登り返します。
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とにかく猪八重川の方面に向かうことを考え、沢音のする方向に進むと、最初の渡渉点に出くわしました。
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しばらく行くと、またまた渡渉です。
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何度か渡渉を繰り返します。
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水量が多いので、そのまま流れに入ってわたるしかありません。
私は今回も地下足袋でしたので、足が濡れることには何の躊躇も感じませんが、山靴ですとかなり抵抗があるかもしれません。
転石には水蘚がついていますから、不用意に足を乗せると滑る可能性が高く、山靴を履いて濡れるのを嫌がりそんな転石乗ったりすると、重大な事故につながる虞もあります。
流れもかなり急ですから、思い切って水の中に入るのが一番いいのではないかと思います。

何度か続いた渡渉も、最後の方になると流れも穏やかになります。
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渡渉が終わると本格的な登りとなります。
急な登りももちろん厳しいのですが、随所に現れる急斜面のトラバースには要注意。
一か所だけロープが張ってありましたが、そのほかのトラバースも、ほとんど崩壊した踏み跡を拾いつつ、崩れる足元をだましだまし通過する必要があり、かなり神経を使いました。
雨が続いたことによって斜面がかなり不安定になっていることもその要因でしょう。

嫌らしいトラバースと木の根をつかんで登るような急登を稼ぐと、久しぶりに道標に出合いました。
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斜面を登りきると、また下り、さらに登りが続きます。
同じような感じの上り下りが果てしなく続き、何だかデジャヴ感にとらわれて、あー、またかよ、みたいな悪態をついてしまいました。
椎名誠さんがキリマンジャロに登った時の紀行文に、キリマンジャロのように目標の山がそこにあって、それに向かって登るのは誠に良いという描写の中で、次のような文章があります。
「これまで登った日本のいくつかの山行では、行けども行けども目的の山が見えず、やっと『あれか』と思って迫っていくと『違うんだもんね、あれはにせ××岳だもんね』などと言われて、よく欺かれた」

これは全くその通りで、そういう山登りに何度も出会っていますが、今回もまたその類です。
うんざりしながら急登急降下を繰り返すと、また道標に出合いました。
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これはもうそろそろかな、と思いつつ頑張って登ると、やはりその先にアップダウンが待っています。
なかなか厳しいなあ、と思いつつ、足元の悪い尾根を頑張って登り続けました。

いくつかの峰を越えて、どうやらあれが目的地の岩壺山かと思われる地点に達し、もうひと頑張り!と気合を入れていたら、尋常ならざる吠え声とうなり声が聞こえてきました。
私のこれまでの乏しい経験からしても、これはクマに間違いなく、それも完全に近づくものに対する威嚇と感ぜられました。
恐らく子熊がいる母熊なのでしょう。
このまま突っ込むと、かなりの確率で修羅場を見ることになる、そう考え、頂上は間近ではありましたが、潔く戻ることにしました。
単独行で、しかも同行者が駐車場に待っている状況です。
何かあれば、多くの人に多大な迷惑をかけてしまう、そのことが頭を巡ったわけです。
それでも、変に慌てて退却をすれば相手に襲われる可能性もありますから、とにかく静かにその場を立ち去り、しばらくしてから行動食を摂って気持ちを静めました。

何か追い立てられるような感じで、さらに山頂を踏めなかった無念さを抱きつつ、それでもつとめて冷静に下山を続け、剣呑なトラバースと藪漕ぎを継続しながら本太郎を目指し、駐車場に到着した時にはさすがに安堵しました。

猪八重渓谷駐車場には15時30分過ぎに到着。
久しぶりにほぼ単独の7時間行動となりました。

クマをはじめ、山の中ではマムシにも二度ほど出会い、この山域の山深さと自然の豊富さに驚嘆しました。
山頂を逃したのは無念極まりないことですから、是非とももう一度訪れてみたいと思っています。

花立山に続く道路から眺めた岩壺山方面の眺望です。
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立派な山容ですね。

ところで、今回の山行では、予想はしていましたが蜘蛛の巣に引っかかりまくり。
それは猪八重渓谷遊歩道でも同じことで、行きに引っかかりながら払った蜘蛛の巣が、帰り道でも張り直してありました。
蜘蛛の頑張りに感動しつつも、この梅雨の晴れ間の日曜日という絶好の散策日和に、ほとんど人が訪れなかったことには、非常に残念なものも感じたところです。
素晴らしい景観なのですから、地元自治体ももう少し宣伝に力を入れてみたらどうだろうと、大きなお世話と思いつつ、感じてしまいました。

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シューマン交響曲第4番 [音楽]

関東地方は梅雨入りとなりました。
紫陽花の花が競うように美しく咲いています。
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5月は結局一つも記事をアップできませんでした。
書きたいことがないわけではないのですが、どうにもまとめる気力が湧いてこない。
こういうときは無理をしないのが肝要だろうと思っています。
現在でもその状況に対して変わりはありませんが、何かを書くことでもしかすると自分の中のスイッチも再度入ることがあるのではないかと、思い直したりもして、久しぶりのアップとなりました。

このところ、何となくなのですがシューマンの交響曲を聴くことが多くなりました。
私はもともとシューマンが好きで、以前にも書いたと思いますが、中学生のときにはじめて自分の小遣いで買ったLPレコードはシューマンのピアノ協奏曲(裏面はグリーグのピアノ協奏曲)であったくらいです。
シューマンの交響曲を初めて聴いたのは、高校生の時のNHK教育テレビでのN響の演奏会の放映で、曲目は第4番でした。
指揮者はスウィトナーだったかサヴァリシュだったか判然とはしませんが、第3楽章スケルツォの第1主題が耳についてはなれなかったことを思い起こします。
高校を卒業して就職し、給料をもらえるようになって、少しずつレコードを買いそろえていた折、セル指揮クリーブランド管のレコードを買い、感動を新たにしたものです。

そんな中、第4番で、フルトヴェングラー指揮によるベルリンフィルの演奏に出会いました。



1953年の録音で、正に円熟の極みともいうべき演奏だと思います。
私がこのところずっと聴いているのももちろんこの演奏で、リマスタリングの性能が向上していることもあって、音質も非常によろしい。
私見ではありますが、第4番の演奏ではこれが最高だと、私は思っております。
ただ、この曲(第4番)の演奏に当たっては4つの楽章を切れ目なく演奏することがシューマンの意図であり、事実、そのように演奏されることが多い中で、このレコード(CD)では第1楽章と第2楽章の楽章間に空白が設定されているように聞こえます。
フルトヴェングラー自身は、様々な記録から鑑みて切れ目なく演奏していたはずなので、これはどういうことなのか。
(ベートーヴェンの第5番に触発されたといわれる)第3楽章と第4楽章は切れ目なく続いていますから、もしかすると録音として編集する際に編集側が「気を利かせて」パウゼを入れたのかもしません。
あるいは、そもそもフルトヴェングラーが楽章間にパウゼを入れたのか、ちょっと気になるところではあります。

フルトヴェングラーの演奏では、第4番のほかには第1番のみが残されていますが、先ほどのセルを始め、クレンペラー、クーベリック、サヴァリッシュ、スウィトナー、バレンボイム、バーンスタイン、シャイーなど錚々たる指揮者がシューマンの交響曲の全曲録音を残しています。
その割には、あまり実演で取り上げられることが少ないような気もしています。
理由はいろいろと考えられますが、一部にはシューマンのオーケストレーションが(ショパンと同じく)稚拙だから、などという乱暴な意見もあるようですね。
私はそのようには感じませんが、確かにブラームスなどと比べれば、演奏による響きの効果をあまり深く考えていなかったということもあるのかもしれません。
シューマンは、練習のし過ぎ(自分で考案した練習機械まで使った)で指を壊すほどピアノに熱中していましたから、楽想はピアノの鍵盤上のものをそのままに移し替えていたのかな、と。
短い音符で半音階のターンを繰り返すみたいな旋律は、ピアノの鍵盤上では何ということもないのですが、管楽器では結構大変だったりしますし、シューマンが創作活動にいそしんでいた当時の管楽器の性能を鑑みると、それが奏者を辟易とさせた可能性もあります。
金管楽器では、ベーム式のバルブが発明される以前など、基本的にC・G・C・E・G・Cくらいの音しか出せず、それ以外の音を出せるのは、スライド式であったトロンボーンやベル中の右手で音をコントロールできるホルンくらいのものでした。
木管楽器でも、嬰(#)や変(♭)記号の音を安定して出すのは、キーシステム導入前はかなり困難だったはずです(リコーダーやトラベルソなどを想像していただければお分かりかと)。
ベートーヴェンのようにオーケストラの楽器の性能を熟知していた人は、そのあたりの呼吸をわきまえていて、各パートに無理なく旋律を振り、演奏効果を奏者が自覚できるような書き方を心得ていました。
シューマンは、情熱的でほとばしり出るような霊感の持ち主であったらしく、その作曲速度は大変な速さだったそうですから、頭の中に浮かんだ楽想そのままに五線譜を埋めていったのかもしれませんね。

現代の楽器の性能は飛躍的に向上していますから、先に述べたようなパッセージなど、奏者は苦も無く演奏することができるでしょう。
しかし辟易とさせられるのはそれほど変わりはなく、「同じ苦労をするのならブラームスの方がそこから得られる響きの実現と深みにおいてはるかに効果的だ」と発言する指揮者や奏者もいるのだそうです。

ただ、裏を返せば、それでもシューマンの交響曲を演奏しようとする人たちはそうした労力を惜しまないわけで、従って「外れ」はかなり少ないのではないか、そんな風にも思います。

カール・ベームの回想録である「回想のロンド」の中に次のような箇所があります。
指揮者はたえず、ホルン奏者たちに、「大きすぎる。みなさん、もっとピアノで、ピアノで」と叫んでいる。彼がそれを三回繰り返すと、首席演奏者は仲間のホルンたちの顔を見る。それで同僚はその旨を了解して、また練習にかかる。さて、その箇所の練習が終わって、指揮者は満足して、「やあ、結構でした。今度は正確でした」というと、ホルンの首席が立ち上がって、「今は誰も何も吹きませんでしたよ」といった。

これはどうやらフルトヴェングラーがシューマンの第4番を取り上げた際の練習(プローベ)でのできごとのようです。
このホルン奏者の「告白」を聞いたフルトヴェングラーは、即座にその個所のホルンのパートを削除することとし、そこの音は休符に代えられました。
それがどの個所であるのか、CDを聴いていても私のような素人にはもちろんわかりません。
しかし、ワインガルトナーも同じような指摘を複数箇所でしており、「余計な」管楽器の音を消して演奏していたとのこと。それによって響きはさらに純粋なものとなり、初期のシューマンの曲にちりばめられていたピュアで清冽な響きが生まれることになる。

晩年のシューマンは、精神的な病の影響もあってオーケストレーションにある種の「濁り」が生じていたのではないかという指摘もあります。
その当否は措くとしても、該当箇所を見る限り、ワインガルトナーの指摘は的を射ているようにも思えました。

以前にも書いたことがありますが、作曲者の頭の中で響いている音楽を記すツールとしての五線譜は誠に不完全なもので、作者の想いのほんの一部分を探す手掛かり以上のものにはなり得ません。
マーラーやプッチーニが楽譜にどれほど多くの指示や願いを書き込もうとも、それが百パーセント実現できる保証はないわけで、逆説的に言えば、それ故にこそ、演奏は千差万別、一期一会の喜びに出会える場所となるのでしょう。

シューマン交響曲全集 サヴァリッシュ&シュターツカペレ・ドレスデン(2CD)

シューマン:交響曲全集 セル&クリーヴランド管弦楽団

シューマン交響曲第4番 フルトヴェングラー&ベルリン・フィル(1953 モノラル)


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シェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」 [音楽]

春めいてきた、と思ったら一気に初夏のような陽気となっています。
陽もだいぶ長くなり、初夏のようなとは云い条、湿度も低くて過ごしやすい気候だなとしみじみ感ずる今日この頃です。

前回の記事でも書きましたように、このブログを更新するモチベーションがなかなか保てず、そうした自分の現在のありようにも不満と焦燥を感じ、どうにも先に進む気持ちが出てきません。
連れ合いの抗がん剤治療も二度目の投与を終え、やはりかなり体調的にダメージが大きく、これでもしもあまり効果がなかったら…、などと、やはりろくでもないことを考えてしまいます。

常では支えてもらうことの方がはるかに多い私のことですから、支えなければならない側に回っている今こそ、弱音を吐いている場合ではない、と自分に言い聞かせている次第です。

先日、ブーレーズの指揮BBC響によるシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」を聴きながら、そのあまりの美しさと厳しい演奏に改めて胸を打たれました。


周知のとおり、この曲はオーケストラのために書かれた12音技法による音楽の嚆矢ともいえるもの。
しかし、指揮者であるブーレーズの作品ほどには冷徹に突き詰めているという感はなく、そこにはロマン派の名残も色濃く残っているように思われます。
とはいいつつも、20世紀の音楽の新しい在り方を指し示すべく、その旗幟を鮮明にしていることは間違いありません。
ソロとオケが交互に主題を展開していきながら、最後にすべての音を鳴らすという構成力も、さすがにシェーンベルクならではですね。

この曲の初演は1928年で、なんとフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによる演奏でした。
因みに日本での初演は1974年のことで、こちらは朝比奈隆&大フィルによるものです。
朝比奈先生のチャレンジャーぶりが彷彿とさせられますね。

ところでこのCDでは、この曲の次に「浄夜」が入っており、終曲が終わった後、しばらくの静寂ののち「浄夜」が始まると、なんだかほっとします。
云うまでもなく、この初期の名曲はシェーンベルクが紛れもないロマン派の後継者であることを示しており、機能和声の枠組みの中にありながらトリスタン和音をベースとした半音階進行を多用するなど斬新な試みもなされていました。
しかし、聴いている側としては、分厚い弦楽合奏の響きの中にそのまま浸っていれば心地よく、何も考えずに身をゆだねることもできます。
「管弦楽のための変奏曲」を聴いているときは、やはりこの曲が12音技法によるものだと思うためか、旋律が現れるたびに、それがきちんと12音階になっているかどうかを確かめてしまうのでしょう。
もちろん、そういう制約の中にありながら、これだけ凝縮したそれでいて美しい響きを作り上げ、5分間に及ぶ終曲に向けて私たちを拉致していく技量に感動もするのですが、どこかしら左脳で聴いている部分があるような気がするわけです。

20世紀の前衛音楽のベースともいえる無調主義への扉を開いたシェーンベルクですが、もともとはワーグナーやブラームスに傾倒してその音楽的な基礎を学んだこともあり、伝統的な機能和声というメチエは彼の音楽的底流をなしていたのではないかと考えます。
例えばピカソが、青の時代、バラ色の時代、キュビズムへと進み抽象画の世界へと至りつつも、そのベースには古典的な絵画技法のメチエが完成されていたことと、なんだかつながるようなものもあるのかもしれません。

芸術というものが過去から連綿と続く伝統の上に成り立つものであるとするのであれば、これはある種当然のことといえましょうが、そこには新たな表現を模索する創造者の苦しみも当然に横たわっていることでしょう。

シェーンベルクの初期の作品、とりわけ、先に述べた「浄夜」や「グレの歌」などを聴くと、その苦悩がひしひしと感ぜられます。
私が「管弦楽のための変奏曲」を聴きながら胸を打たれ、なんとも云えない感慨にふけってしまうのも、もしかすると、そのシェーンベルクの苦悩がそこに見え隠れするからなのかな、とも思ってしまいます。

音楽にしても絵画にしても演劇にしても、凡そ芸術というものによって糧を得ようとするのであれば、それを受け止める側(観客など)の心に如何に響くようなものを作り出すことができるか、少なくとも身銭を切ってそれを聴きたい・観たいとする想いをどれだけ喚起できるかが切実な問題となることでしょう。
伝統から学ぶ、という姿勢がどうしても必要となるのは、畢竟、そういう切実感が出発点となっているのかもしれません。失礼な云い条とは思うのですが。

などと、かなり失礼かつ支離滅裂なことを書きましたが、この、ブーレーズによるシェーンベルクの全集CDは聴きものです。
この値段で、これだけ網羅的にこれだけ本質を突いた素晴らしい演奏を聴けるのは本当にありがたいことだと感じます。
お薦めです。
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桜の花が咲き始めました [日記]

春分の日には時ならぬ降雪に見舞われ、真冬に逆戻り。
その前には初夏のような気温と、このところお天気が目まぐるしく変わります。

それでも春は着実な足取りでやってきているようで、お昼休みにウォーキングに出かけると、桜の花が咲いていました。
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レンギョウも咲いています。
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ミツマタの花も盛りです。
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後ろの方にはユキヤナギの花もありました。
肝心のミツマタの花がぼけてしまったのはご愛嬌ということでご容赦ください。

二月の初め、連れ合いにがんの転移が見つかりました。

入院・手術を行った後、これからの治療について、二か所のセカンドオピニオンをお願いするなど慌ただしい状況が続き、また、私の精神状態が不安定であったことなどもあって、このブログの記事をアップする気力がなかなか湧いてこず、ひと月以上もご無沙汰をしてしまった次第です。

気丈な連れ合いも、今回のことはかなりのショックだったようで、さすがに無理もないことでしょう。
それでも、常に変わらず家のことなどもきちんとこなし、その合間に病院に通うなど、我が連れ合いながら改めて頭の下がる思いです。

当面の治療方針は決まりましたが、最初の時とは違って、どうするのかの最終的な判断は私たち夫婦に委ねられました。

最初のときには自信をもって手術を執刀し、その後の治療計画も示してくださった担当医ですが、「これが確実」というような効果を望める治療法がないことから、どうしてもこのような対応にならざるを得ないのだろうと思います。

セカンドオピニオンで伺った医師の助言も参考にして、二人でいろいろと考えた末の結論。

もちろん、私は効果があるものと信じておりますし、連れ合いにもそのように話しました。
もともと医療関係の仕事に就いていた連れ合いですから、ある程度の冷静さを以て決断を受け入れたようです。

前にも申し上げましたが、精神面で私は連れ合いよりもはるかに脆弱だと思っています。
先月の診察結果を聴き、その時にはさすがに目の前が真っ暗になりました。

しかし今回ばかりは私が落ち込んでいるわけにはいきません。
精一杯頑張るつもりです。

そんなわけで、このブログの更新もままならず、ご訪問も滞るのではないかと思います。
その点何卒ご容赦ください。


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