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孤独のとらえ方 [山登り]

山登りのスタイルについて、基本的に単独行である人と、仲間を募って登る人に、なんとなくですが分かれるような気がします。
半世紀くらい前にはスタンダードであった「パーティ」は、チーフとサブというリーダーの元に隊員が組織され、それぞれに「食料担当」「装備担当」「記録係」「天気図作成」などといった役割が付されて統率されていましたが、今や、学生や社会人山岳会でもこうした形態は衰退してきているように思われます(実際はどうなのでしょうか?)。
つまり、仲間を募って登る、というのは、正しく「同好の士」が集まってワイワイ楽しく行動する、という感じになっているようです。
そういう山行にはこのところ全くご無沙汰ですので、あくまでも私の想像の限りでは、というエクスキューズが付きますが。

「何のために山に登るのか」という無粋な問いかけに対して、恐らく山に登っている人たちそれぞれに固有の目的や理由や想いがあろうかと思います。
20年以上も前に、私はそのことについて自分のサイトの記事として書いたことがあります。
改めて読み返すと青臭さに辟易としますが、当時としては正直な気持ちだったのでしょう。やはり一種の現実逃避だったのかもしれません。

都市部での生活を余儀なくされている私たちは、毎日毎日混雑した通勤電車に揺られて出勤し、多くの人々に囲まれながら仕事をし、時には熱くなって議論も重ね、やはり満員電車でもみくちゃにされながら帰宅、くたくたに疲れて泥のように眠る、などという、生物としてはいささか異常な環境の中で日常を生きています。

縄文時代は狩猟が主だったこともあり、人口密度は一万平米に10人くらいのものだったそうです。
つまり、山手線の内側に60人程度の人間しか住んでいなかった、ということなのでしょう。
人間は雑食ですから、木の実・草・虫・動物などなど、生きていくのに必要な獲物は、天候と環境にさえ恵まれれば造作なく手に入ったことと考えられます。
縄文時代が一万年をはるかに超えて長く続いたのも、比較的温暖で安定した気候が続いていたからといえるのかもしれません。
そして地球は再び寒冷化に向かい、自然界の恵みに頼る生活形態では対応ができなくなって、縄文時代は終わりを告げます。
古事記や日本書紀にみられる天岩戸伝説は、恐らく長きにわたって太陽光を遮った天体現象や気候変動を伝えたものなのでしょう。
安定した食料調達のため、人間は農耕の道に進み、作物を栽培し家畜を飼育して、その土地に定着するようになります。
まとまった人間が共同で生活するようになると、そこに暮らす人々は当然に互助の意識をもつようになり秩序や社会性が必要となってきます。
本来、動物は自身の防御本能から個体距離(パーソナル・ディスタンス)を設定し、そこに近づく他者を排除するため攻撃する(あるいは自らが逃走する)ものなのですが、生活のために共に生きる者同士は、その目的ゆえにその距離が縮まることを敢えて忌避しなくなる。
しかし、本能的にはやはり嫌なことなのだろうと思います。
「私たちは愛し合っているからいつもくっついていたい」
などと甘い想いに浸っているカップルだって、恐らく四六時中そばにいたら辟易するのではないでしょうか。
ましてや、何の関係もない赤の他人が自分の個体距離(臨界距離)の中に入ってくるのは、本来耐え難いことだと思います。
通勤時などの満員電車に詰め込まれているとき、私は石になろうと努めています。少なくとも感情を表出させることのないように押し込めます。
そこから逃れようとしても物理的にできないわけですから仕方がありません。何故そんな理不尽に耐えられるかといえば、その中に押し込まれていることが経験上危険な状態ではないことを認識しているからなのでしょう。
考えようによっては誠に哀れな「習慣」だとは思いますが。

そんなわけで、私にとっての山歩きは、そうした日常からの解放が目的といえるのかもしれません。
なるべく人のいない時期やルートを選び、一人の時間を満喫する。
30年以上前の私は幕営による長期単独縦走にはまっていて、一週間から十日間くらいかけた山行に汗を流していました。
同好の士がいなかった、ということもありますが、今振り返ってみれば、あれは単独だったからこそ意味があったようにも思われます。
長期間の縦走となりますと、食料やルートも計画通りにいかなくなることは当然のように起こり、その都度判断を求められるわけですが、単独であるからこそ徒な逡巡といったマイナス要素を排除できるのです(もちろんそれによるリスクは全て自分持ちですが)。

今となっては家庭や仕事上の都合もあり、こうした山行を試みることは困難ですが、たとえ日帰りでも、意識としては全てを自分の判断と責任で行動したい、という想いが強く残っています。
ある種、日常的な束縛から逃れるために山に行く部分もあるわけですから、不思議なことではないとも思いますが。

それから、これはかなり根本的なことであると思いますが、私は単独で山に入っていても、寂しさややるせなさや心細さといったような負の意味での孤独を感じたことはありません。
恐らく単独行を実践している人たちには、この気持ちがわかってもらえると思います。

ところで、こんな記事を目にしました。

中高年男性が軒並みハマる「孤独」という宗教

私は、以前こんな記事を書いたこともあり、仲間外れにされる不安感から友人を求めるのは本末転倒ではないか、と考えています。
のっぴきならない問題が起きた時に、身を挺して助けてくれる人を一人でも持っていればそれで十分。
また、自分としてもそうしてあげたい大切な人がいる、そのことが重要なのではないか、と。
そして、そういう関係性を築くことができるのは、自身の孤独を見つめそれを鍛えることのできる自立した者同士なのではないかと思っています。

ご紹介した東洋経済の記事は、そんな私の思い込みに警鐘を鳴らすものなのかもしれません。
しかし、
国立社会保障・人口問題研究所が今年8月に発表した調査では、65歳以上の高齢者で1人暮らしをしている男性の15%(女性は5%)、およそ7人に1人が、会話の頻度が2週間に1回以下であるという結果だった。また、65歳以上で一人暮らしの男性の30.3%(女性は9.1%)が「日ごろのちょっとした手助け」で頼れる人が「いない」と答えた。

とか、
アメリカの財団が同じ8月に発表した日米英の孤独に関する調査では、孤独であると回答した人のうち、10年以上、孤独であるという割合が35%と、アメリカ(22%)、イギリス(20%)より圧倒的に高かった。

というくだりには考えさせられます。

人は社会的な生き物ですから、たった一人で生きるということはできません。
生きていくうえでの他者とのつながりは基本的で重要な要素です。
ただ私は、そうしたつながりを、家庭とか学校とか会社とか地域(ご近所)といったような既存コミュニティのみに求めるのはどうなのかな、と思います。
既存コミュニティの中にいて得られる安心感は、仮にそこから疎外されてしまった場合、致命的かつ絶望的な喪失感へと激変することになるのではないでしょうか。
従って、そのコミュニティの中にとどまれるように、ある時には自分を抑え同調圧力に身をゆだねていかなくてはならなくなる。
やはり本末転倒だな、とつくづく感じます。

つながるのは組織やコミュニティなどではなく、あくまでも個人なのではないでしょうか。
個人同士で自在にしなやかにつながっていく、そんなつながりこそが必要なのではないかと思います。

その意味では、ブログを通じたつながりというのも非常に有効なのではないか。
事実、私は、私の拙い記事に貴重なnice!やコメントを付けて下さる皆様に対して、個人的に深いつながりを感じています。
なかなか記事がアップできないので内心忸怩たる想いはありますが、拙いながらも記事を書いていこうとするのは、そうした自在なつながりを求める気持ちからくるような気もしています。

何かにつながることによって自分自身の存在を思索し確認する。
ある意味では人間だけに与えられた特権なのかもしれませんね。

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